朝鮮出身の出自を隠しながら「日本人のヒーロー」であり続けたプロレスラーの力道山(昭和38年、39歳で死去)は故郷を懐かしみ、親しい人の前ではよく朝鮮民謡の『アリラン』を歌っていたという。
朝鮮民族の魂というべきアリランは古来、地方ごとに歌い継がれたバージョンが星の数ほど存在する。力道山はどのアリランを歌っていたのだろうか。
力道山は、大正13(1924)年=異説あり=に現在の北朝鮮に含まれる咸鏡南道で生まれている。その2年後(大正15年)に制作され、朝鮮全土で2年に及ぶロングランヒットとなった映画があった。
羅雲奎(ナ・ウンギュウ)監督・主演の朝鮮映画『アリラン』だ。無声映画だが、ラストで弁士や歌手が劇場で歌ったアリランが「解説版」として多数のレコードに吹き込まれた。同じ頃、朝鮮でも実験放送が始まったラジオにも乗って普及してゆく。
この日本統治時代の映画から誕生した歌がもとになって「本調アリラン」が整えられ、現在の韓国・北朝鮮のみならず、世界中で最も親しまれているスタンダードのアリランとなった。今年2月の韓国・平昌五輪開会式で南北選手団が統一旗を掲げて合同入場したときに流されたのも、このアリランである。
力道山が、南北統一選手団を夢に描いた昭和39(1964)年の東京五輪。前年にスイス・ローザンヌで行われた南北体育会談では、統一選手団の団歌としてアリランを使用することで合意していた。結局、北朝鮮は東京五輪に参加せず、統一選手団も実現しなかったが、年代からみても力道山が愛唱していたのも、このアリランだったに違いないだろう。
哀調は「涙のスープ」
このアリランは、間もなく海峡を越えて日本でも大ヒットする。
映画から5年後の昭和6年、日本初のアリラン・レコードが発売された。歌ったのは「金色仮面」という覆面歌手、後に『涙の渡り鳥』で知られる小林千代子である。日本語の詞は、詩人の西條八十(さいじょう・やそ)が書いた。
翌7年には、淡谷のり子と長谷川一郎(蔡奎●(=火へんに華、チェ・ギュウヨプ))のデュエットによる『アリランの唄(うた)』がヒットを飛ばす。こちらの詞は、詩人・作詞家の佐藤惣之助(そうのすけ)が書き、編曲を古賀政男が担当している。哀愁をかきたてる伴奏は、古賀の母校である、明治大学マンドリンオーケストラ・アコージョンが務めた。
後に、日本を代表する作曲家となり、国民栄誉賞にも輝く古賀は、福岡県出身だが、少年時代を兄が事業を営んでいた日本統治時代の朝鮮で過ごしている。
『アリランの唄』が発売された年の雑誌『改造』12月号には、朝鮮という土地の風土や伝統的な民謡の美しさに魅了されたのが、音楽に親しみ、作曲に興味を覚えたきっかけになったこと。さらには、清楚(せいそ)な装いをした妓生(キーセン)が哀調をもって歌うアリランの音楽的すばらしさを称賛する一文を寄せている。
古賀は、戦後の25年には、朝鮮出身の歌手、小畑実(康永★(=吉を2つヨコに並べる、カン・ヨンチョル))にアリランをモチーフにした『涙のチャング』を提供している。
『アリランの唄』に詞をつけた佐藤もアリランに強い印象を受けたらしい。朝鮮の訪問記にこうある。
《アリラン歌は、三つ子でも知っているようである。そして内地の河端(かわばた)柳のように、どこか自暴自棄で、哀愁があって、非常に疲れているような味がある。安妓生が竹の箸で大きい鼓を鳴らし、アリラン・アラリーヨと唄い出すと、実際、神仙炉(※朝鮮の鍋料理)から立ちのぼる煙も、涙のスープになる》(昭和12年、『旅窓読本』から)
この時期、他にも『アリラン・ブルース』『アリラン小唄』『アリラン夜曲』など、アリランにあやかった大衆歌謡が相次いでつくられている。8年には、宝塚キネマの映画『アリランの唄』も公開された。
なぜ、アリランはこれほどまでに日本の作曲家、詩人、歌手の心を揺さぶったのか。もちろん、第一には歌が持つ「力」が理由であろう。さらに、時代背景として6年の満州事変、翌年の満州国建国と続く「大陸ブーム」があった。新天地に夢を描いた多くの日本人が海峡を越えて大陸へと渡った時代、満州・朝鮮にちなんだ「ご当地ソング」が続々とつくられ、ヒットを飛ばす。
折しも朝鮮で「緩やかな統治」の文化政治の時代に入っていた。1920年代後半以降、日本のレコード会社が相次いで朝鮮へ進出し、大衆音楽文化も花開く。映画、レコード、ラジオといった当時のニューメディアによってアリランは一気に広まり、海峡を越えた人々によって日本にも伝えられた。世界的舞踊家の崔承喜(チェ・スンヒ)やテノール歌手の永田絃次郎(げんじろう)(金永吉(キム・ヨンギル))ら、日本統治時代にアリランにかかわった芸術家・音楽家は数知れない。
戦後も続いたブーム
日本での「アリラン」ブームは、形を変えて戦後も続いてゆく。『月がとっても青いから』などのヒット曲で知られる菅原都々子(つづこ)(91)にはエレジー(哀歌)の女王の異名がある。菅原は昭和26年、第1回のNHK紅白歌合戦に出場。同じ年には戦後初となる『アリラン』と朝鮮民謡『トラジ』のレコードを出し、日本のファンにこの歌の魅力を思い出させた。
日本の伝統音楽の巨匠たちも魅力した。新内の岡本文弥(ぶんや)、津軽三味線の高橋竹山(ちくざん)、都々逸(どどいつ)の柳家三亀松(みきまつ)…多くの名人・上手が「アリラン」を取り込み、歌い、演奏している。
日本統治時代にルーツを持つ歌(アリラン)が日本と朝鮮半島との「懸け橋」となり、いまなお世界中で愛されているのだ。そのことを噛(か)みしめて、この連載を終えたい。
=本文敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)=おわり
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『海峡を越えて「朝のくに」ものがたり』は、産経新聞出版から書籍化の予定です。ご期待ください。