維新伝心150年

大隈重信の長女、熊子 「内助の功」で大政治家支える

 佐賀出身で明治、大正に首相を2度務めた大隈重信(1838~1922)には、その人生を支えた長女がいた。名前は大隈熊子(1863~1933)。大隈家を取り仕切り、女子教育の振興にも陰ながら役割を果たした。周囲は「男なら重信より偉かっただろう」と評し、熊子のような女性が、社会で力を発揮できる時代の到来を願った。(高瀬真由子)

 明治元年3月、30代の重信は政府に出仕した。佐賀藩でも上士の家に生まれた重信は、妻の美登と、幼い熊子を佐賀に残し、東京・築地に居を構えた。

 重信は外国事務局判事として、諸外国との交渉で頭角を現した。翌2年、徳川家旗本だった三枝家の娘、綾子との再婚を決め、美登と別れた。夫婦間の事情は分からないが、中央に出る重信を思い、美登は身を引いたのだろう。

 「父と母、どちらに付いていくか」。重信の母、三井子は熊子に聞いた。熊子は「お父さんに付いていく」と語った。

 明治4年、8歳の熊子は三井子と一緒に、長崎から東京に向かう船に乗った。故郷の佐賀、そして実母との別れだった。

 熊子にとって、東京生活は驚きに満ちていた。洋館や鉄道が普及し、生活は佐賀時代と一変した。

 実母と離れた寂しさはあっただろうが、熊子はのびのびと育った。新時代の女性に必要な教養は、重信が選んだ家庭教師から学び、武家の娘としての立ち居振る舞いなどは祖母の三井子の指導で身につけた。

 重信は6年、国の財政の責任者である大蔵卿(大臣)に就任した。

 維新三傑と呼ばれた木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通が10~11年に相次いで死ぬと、重信はますます、政界で重きをなした。

 伊藤博文、井上馨らが集う大隈邸は「築地梁山泊」と呼ばれた。梁山泊は中国の小説『水滸伝』に、豪傑の拠点として登場する。

 海外要人の出入りも多く、大隈邸は「世界の客間」でもあった。そんな環境も、熊子の成長に影響した。

 ■父のそばに

 明治12年、17歳になった熊子は、盛岡・南部家の次男、英麿(1856~1910)と結婚する。

 南部藩は戊辰戦争で「賊軍」となった。政府側についた秋田藩と戦ったからであり、維新後は冷遇された。

 しかし、重信は英麿を見込み、養子縁組して迎え入れたのだった。英麿は15歳で渡米し、大学で天文学の学位を得ていた。

 その後、大隈家は大きく揺れた。

 14年、重信は憲法制定などをめぐる政争に敗れ、下野した。外務省などに勤めていた英麿も、官を退く。

 経済的に苦しくなった大隈家は、節約や土地の売却に追い込まれた。政権から遠ざかると、手のひらを返すように人が去っていく。熊子は政界の影を味わった。

 重信は15年、後に早稲田大となる東京専門学校を創設し、英麿が初代校長となった。重信は女性教育の必要性をいち早く唱え、日本女子大学校(現日本女子大学)設立も後押しした。

 熊子は夫を献身的に支えた。英麿が仕事でいくら遅く帰っても、読書をして待っていた。温和な性格の英麿も、熊子を大切にした。

 しかし、明治35年、結婚生活は終わりを迎えた。英麿が知人の保証人となり、多額の借金を背負ったためだった。英麿は被害が大隈家に及ばないよう、離縁を申し出た。

 重信の腹心だった犬養毅(1855~1932)=後に首相=は熊子に尋ねた。「夫君と一緒に家を出る意志はありますか」

 熊子「家を離れるつもりはありません」

 犬養「父君はあなたが安らかに暮らすことを望んでいます。両親の元を離れ独居生活をされてもいいんですよ」

 熊子「父の慈愛はありがたいことですが、父は体が不自由です。そばに仕えることが幸せです」

 重信は22年に活動家の手投げ弾で重傷を負い、右足を切断していた。

 熊子が、愚痴や嘆きを口にすることはなかった。

 「非の打ち所がない」。そう言われる熊子だったが、夫との別れは心の大きな傷となっただろう。

 ある人は「熊子さんは、秋の夕日を受けた富士のよう」と記した。哀愁の影を持つがゆえに、そびえる姿は美しい。

 後に英麿の訃報に接した熊子は、しばらく肉食を絶ち、喪に服した。

 離婚後、熊子は大隈家の奥向きを取り仕切った。重信に関する書籍や雑誌に目を通し、客には細心の注意を払って対応した。今で言う有能な秘書といえた。

 そんな熊子を、重信も愛した。明治40年、熊子は感染症で重篤となった。見舞いは禁止されていたが、重信は、庭の散歩にかこつけて病室の縁側まできた。不自由な体を伸ばし、病室をのぞいたという。

 楽観的な重信が、このときばかりは動揺した。熊子が快方に向かうと、重信は「よかった、よかった」と天を見上げた。

 ■匿名で寄付

 重信は大正11年に死去し、後を追うように妻の綾子も12年に亡くなった。

 その4カ月後、関東大震災が起きた。建物崩壊と火災で、10万を超える人命が奪われた。

 大隈家の広大な敷地には、避難者が詰めかけた。何とかしたいという熊子の思いもあっただろう。熊子は人々に米や物資を分け与えた。

 重信死後も、大隈邸には重信と交流のあった政治家や実業家がよくやってきた。目的の一つが、熊子との面会だった。

 表舞台には一切出たことがない熊子だったが、日々の読書や交流を通じて、古典から現代の政治まで、豊富な知を積み上げた。万葉集の和歌から、「日本がどうなるのか」といった大局的な話までできる女性であり、その考えを参考にしたいという人も、多かった。

 何より人々は、熊子の「宝玉のような人格」に、ひかれていった。

 「最近の政治家は、自分たちの立場や利益を得ることばかりを考えているようです。人々がすさんでいく原因は、こうした政治家にあるのでしょう」。こう憤ることもあった。

 熊子は、父の思いを受け継ぎ、女子教育の普及にも目を向けた。

 故郷の佐賀に昭和4年、佐賀高等裁縫女学校が誕生した。その年、米ニューヨーク市場で株価が大暴落した。世界恐慌の始まりだった。女学校の経営も厳しくなった。

 熊子は5年、知人を通じて女学校に30円を寄付した。名前は「無名氏」として伏せていたが、封書の印から熊子からだと判明した。30円は現在の10万円程度とみられる。

 金額の多寡(たか)ではなく、熊子の行動は、学校創設者の中島ヤス(1876~1951)を大きく力づけた。

 その後、熊子の呼びかけもあったのか、東京の佐賀同郷婦人会も支援に動いた。女学校は発展し、佐賀女子短大として今に至る。それ以外にも、幅広い寄付活動に取り組んだ。

 犬養は「男であろうものなら、老侯(重信)よりは偉かっただろう。政治家としても実業家としても大きなものになったろう」と高く評価した。熊子のような女性が社会に出る機会がないことを「国家の損失だ」という人さえいた。

 熊子は昭和8年、69歳で死去した。告別式には政財界の関係者に交じって、一般庶民も多数参列した。

 ただ熊子は、自身が世に知られることを嫌った。死の直前、全ての日記を水に浸して廃棄していた。

 それでも、「熊子さんのことを100年後も伝えたい」と、慕う人々がいた。関係者の回顧を集めて「大隈熊子夫人言行録」を編纂(へんさん)し、死去直後に発行した。熊子に関する唯一の詳細な資料となっている。(敬称略)

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 取材協力 横尾文子・佐賀女子短大名誉教授、本間雄治「みなくるSAGA」理事、郷土史研究家の末岡暁美氏、「楊柳亭」菱岡朱実氏、江口直明・大隈重信記念館館長、佐賀城本丸歴史館

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