昭和39年物語

(17)「主砲」山内一弘の苦悩…メガネ外して「阪神第1号」

不振脱出のためメガネをかけて打撃練習する阪神の山内
不振脱出のためメガネをかけて打撃練習する阪神の山内

 弟子ともいえる大洋・三原監督に3ゲーム差をつけられての2位。阪神・藤本監督はすこぶる機嫌が悪かった。

 「だから軽視できんと言うとったやろ」。今シーズンからホームベースを数メートル前に出し、外野フェンスまでの距離が近くなった川崎球場。開幕前に藤本監督は大洋の勝ち星が「15か20は増える」と警戒していた。とはいえ、まだ序盤戦。鼻息は荒い。

 「ウチは首位に出ようと思えばいつでも出られる。村山の3日置きの登板ペースを崩して、ここというときにリリーフに出せば楽なもんや。けど、それはしない。出る杭(くい)は打たれると昔から言うやろ」

 この時、チームの中でもがき苦しんでいる男がいた。前年の38年12月、エース小山との「世紀のトレード」で阪神にやってきた山内一弘(当時31歳)である。4月9日、14試合を消化した時点で打率・163、本塁打0。4月4日の中日戦から乱視矯正のメガネをかけて試合に臨んでいた。

 山内が乱視に気づいたのは35年、大毎時代のシーズン開幕前だった。すぐにメガネをかけようかと考えたが、巨人とのオープン戦で川上監督から「メガネをかけなくても当たっているときは、かける必要はない。調子がおかしくなったときでいいんじゃないか」とアドバイスされ、メガネなしでやってきた。だが、スランプに落ち込み、藁(わら)にもすがる思いだったのだろう。

 本間によれば「ヤマさんは本当に苦しんでいた。期待も大きかったし、焦りもあったと思う。そりゃもう、なりふり構わずやった」。山内は調子の良かったときのフォーム写真を吉田やチームメートに見せ「今とどこが違う?」と尋ね回っていたという。