--一本を取る柔道の基礎を築いたのは、私塾「講道学舎」での6年間ですか
大野 基礎というかきれいな柔道を教えてもらいました。中学生までは体が小さかったので、担ぎ技で相手にぶらさがる格好悪い柔道をしていました。中学3年から高校1年に上がるとき、恩師の持田治也先生に目を付けてもらい、脇を持って大外刈りをかけるやり方を教わりました。同じ講道学舎にいた兄(2歳上の哲也さん)のまねをして内股の練習もしましたし、2000年シドニー五輪81キロ級金メダリストの瀧本誠さんら尊敬する柔道家のいいところ取りをしたのが、今の僕のスタイルだと思います。
--練習がつらくて、故郷の山口県に帰りたいと思ったことはありましたか
大野 毎日思っていましたよ。辞められるものなら辞めたかったです。でも兄が強かったので、僕が辞めて帰ると、まず兄に迷惑がかかる。母親からは「行ってもどうせ辞めて帰ってくる」と言われていたので、そんな言葉にも負けたくなかった。逃げ場もなかったし、逃げる勇気もなかったのが本音です。
--お兄さんがいたことで耐えられたのですね
大野 兄は強かったので憧れの存在でした。でも、どうしても比べられて、6年間はずっと「大野の弟」という呼ばれ方をしていました。それが悔しくて。その気持ちと根性だけで、6年間、講道学舎にいたという感じです。
--正しくつかんで正しく投げるという教えは、6年間をかけて習得された
大野 自分より体の大きい選手に泣きながらしがみついて、ぼろ雑巾になりながらやっていました。泣いてばかりでした。でもぐっとこらえる我慢が土壇場で、例えば五輪の舞台でも生きてくると思います。人間、追い込まれたときに真価が問われます。そういう生活に耐えた誇りはありますね。たまたま今こうやって結果が出ているだけで、僕は天才でもなんでもないです。
--五輪を意識したのは
大野 ぐっと意識したのは講道学舎に入ってからです。中学校に入ってすぐ瀧本先生に稽古をしてもらって。田舎から出てきた子供が五輪の金メダリストにすぐ稽古をつけてもらうのはあり得ないですよね。OBにも高校生にも全国王者がいる環境で「自分も」という気持ちは間違いなくありました。
--世界を意識せざるを得ない環境だったのですね
大野 (16年リオデジャネイロ五輪66キロ級銅メダリストの)海老沼匡(えびぬままさし)先輩と兄が同級生でした。僕と同じぐらい海老沼先輩は小さかったけど、強かったですから、そういうことにも感化されました。