話の肖像画

CoCo壱番屋創業者・宗次徳二(70)(2)

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■「ここが一番!」で命名

〈高校卒業後に飛び込んだ先は飲食業界ではなく、不動産業界だった〉

新聞の求人広告で見つけた不動産仲介会社に営業マンとして就職しました。名古屋にいたかったのと、自動車を運転する仕事をしたかったのが理由です。周りの先輩たちが次々と開業するのを見て、私も20歳で宅建資格を取りましたが、住宅建築の知識も必要と考え、大和ハウス工業の名古屋支店に転職しました。

〈その職場で、妻となる直美さんに出会った〉

約30人の営業マンに分け隔てなく、同じ態度でサポートしてくれる姿に一目ぼれし、2回目のデートでプロポーズしました。彼女の誕生日でしたが蓄えがなかったので、一番よく聴いていたビバルディの合奏協奏曲集「四季」のレコードを贈ったんです。今も2人の大切な宝物です。

〈2年間の交際を経て23歳で結婚し、翌年に独立開業。次の年には喫茶店を開く〉

マイホーム熱が高まる中、不動産仲介の事業は順調でした。銀行融資を受け、住宅の建て売りも手がけました。ただ、好不況の波も考え、夫婦で「現金商売をしようか」と思いついたのが喫茶店でした。

当初は妻が店を切り盛りし、私は手伝うくらいのつもりでしたが、お客さまの反応を肌で感じられる魅力にとりつかれ、「これが天職だ」と。それからすぐ、不動産業の廃業を届け出ました。後先(あとさき)を考えない行動だったかもしれませんが、脇(わき)目もふらず新しい仕事にかけようと決めたのです。

〈名古屋の独特な喫茶店文化は有名だ〉

コーヒーにあられやピーナツを付けたり、モーニングサービスでトーストや卵を付けたり。結局それは「安売り競争」にすぎないと思い、銀行の融資担当者に助言されてもやりませんでした。おまけを付けるより、明るい笑顔でお客さまを迎えたい。「CoCo壱番(いちばん)屋」でラッキョウを有料にしたのも、同じ考えからです。真心を込めたサービスを続けるうち、口コミで繁盛するように。続いてコーヒー専門店も開きました。

〈その後始めた出前のカレーライスが評判を呼び、昭和53年に専門店を開く〉

東京へ出かけ、有名カレー店を12カ所食べ歩いてみました。どこも個性的な味わいでしたが、毎日食べたくなる味とは違う。むしろ妻がレシピを作った自分たちのカレーのほうがうまい。「ここ(うち)が一番や!」と、帰りの新幹線でひらめいたのが、CoCo壱番屋の命名の由来です。

〈開店当初は閑古(かんこ)鳥の鳴く毎日だった〉

ぬるいカレーを出したり、ライスを切らしてお客さんを待たせてしまったり、不評が聞こえてきました。開店当初は、忙しさで手が回らなかったのです。従業員が接客に集中できるよう厨房(ちゅうぼう)設備を直しました。

私と妻が毎晩「サクラ」でカレーを食べる演出もしましたね。喫茶店も初めから順調ではなかったし、心を込めて「真面目に続けていれば大丈夫」と、楽天的でした。その通りでした。(聞き手 山沢義徳)

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