産経抄

10月23日

 1961年の夏、米ワシントン州の小さな島からボートをこぎ出し、日がな一日寝転んでいる日本人がいた。海に群れをなすオワンクラゲから、どうやって発光物質を取り出すか、考え続けていた。1週間たって、ある方法を思いつく。学会にもほとんど顔を出さない、「孤高の科学者」と呼ばれた下村脩(おさむ)さんらしい。

 ▼実験室で発光物質を研究中に副産物として発見したのが、緑色蛍光タンパク質(GFP)だった。GFPはやがて、生きた細胞の中で特定のタンパク質の動きを追う「目印」として使われるようになり、生物学や医学を飛躍的に進展させる。その功績に対して、47年後にノーベル化学賞が贈られた。

 ▼子供の頃から化学に興味があったわけではない。中学生のとき長崎県諫早市の軍需工場で作業中に原爆を体験した。戦後の混乱期に浪人生活を送り、ようやく入学できたのが家の近くにできた長崎薬専だった。

 ▼卒業後、長崎大から名古屋大に内地留学が決まり、研究室を訪れると指導を受けるはずの教授が不在だった。代わりに受け入れてくれた教授の専門の一つが発光生物である。クラゲの研究も米国の大学から持ちかけられた。

 ▼数々の偶然に導かれた課題に、下村さんはひたむきに取り組んだ。家族総出で実験に必要なクラゲをとり続け、17年間で85万匹にもなったエピソードは有名である。ところが下村さんの研究の区切りがついた90年代になると、クラゲがまったく姿を見せなくなった。原因は分からない。

 ▼いずれにせよ下村さんの渡米がなかったか、あるいは時期がずれていたら、GFPの発見はなかった。90歳の天寿を全うした下村さんは著書に記している。「天は私を使って人類にGFPを与えたのではないか」

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