虎番疾風録

御大・西本「勇退」の大騒動 其の一24

昭和54年10月16日、パ・リーグを初制覇し、主砲マニエル(右)と肩を組んで喜ぶ近鉄・西本監督
昭和54年10月16日、パ・リーグを初制覇し、主砲マニエル(右)と肩を組んで喜ぶ近鉄・西本監督

虎番疾風録 其の一23

東京が「長嶋騒動」で揺れている頃、大阪でもひと騒動が巻き起こった。

9月13日に一部スポーツ紙が「腹は決まっとるが、いま言えば迷惑がかかる」という近鉄・西本幸雄監督の談話を掲載。『西本監督、今季限り』シーズン終了を待って辞任―と報じたのだ。その日、仙台でのロッテ9回戦を1-5で敗れた近鉄は、後期この時点で18勝31敗2分け。5位の南海に2・5差をつけられての最下位。前後期最下位のどん底状態に陥っていた。

「進退の話をすれば、やる、辞めるどちらにしろチーム内はゴタゴタする。シーズン中はチーム第一。個人のことは後回しや。すべてはシーズンが終わってからや」

西本監督はこう言って、記者たちの質問を遮(さえぎ)った。だが、それで済むわけがなかった。その日を境に近鉄担当の記者たちは、西本監督、球団代表、電鉄本社上層部そして西本の知人宅などへ毎日、夜討ち朝駆け。あらゆる線をたどって取材に走った。

近鉄の担当は当時、各社1人がほとんど。4~5人という大所帯で取材する虎番と違い、すべての責任を1人で負う。当然、新米の虎番記者も助っ人にかり出された。

徐々に筆者にも事情が分かり始めた。西本監督が初めて球団へ「辞意」を漏らしたのは9月初旬。持病の「胃潰瘍(いかいよう)」が悪化したのがきっかけだった。61歳という年齢からくる体力の低下。肉体的限界と成績不振から「身の引き時」と判断したようだ。

さらに、近鉄の選手やフロントに対する不満があった。戦力的にみても踏ん張れるところで踏ん張り切れない選手たち。これまでなら一喝すればいうことを聞いた選手たちも、最近では陰で舌を出しているという。そして大砲マニエルの一方的な放出―などが、西本監督が情熱を失った原因とされた。

もちろん球団は必死になって慰留に努めた。時期も悪かった。近鉄グループの総帥である佐伯勇オーナー(電鉄本社会長)は当時、大阪商工会議所の会頭を務めていた。年に1度、米国シカゴで行われるシカゴ商工会議所との会合に出席するため渡米中。帰国は9月30日の予定だった。オーナーの帰国を待って、近鉄グループを挙げて引き留める―が大方針だった。

「無理やな。西本さんは一旦、口に出したことは絶対に曲げない。たとえ、佐伯さんが出てきても西本さんは辞める。そういう人なんや」。昭和37年、西本が阪急の1軍コーチになったときからの付き合いという「殿」こと平本先輩は断言した。そして、こう指示を出した。

「問題は西本さんが後任に誰を推してるか。それと、阪神の動きや。中西さんの後任候補に挙げるのかどうか。ワシとしては、西本さんを獲りに行って欲しいんやがなぁ」

<その通りや>「殿」のひと言で編集局は盛り上がった。(敬称略)

虎番疾風録 其の一25

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