「二浪宣言」なんて想定内。一度断られたぐらいでは大洋漁業・中部藤次郎社長の「長嶋愛」はびくともしなかった。
「二浪されることになっても、待つつもりです。1年はしかるべき人にやってもらう。その案はもう考えている。ただ、シーズン中でも長嶋さんの気持ちが変わられたら、その時は、すぐに来てもらいます」
えらい惚(ほ)れ込みようである。それより、そんな球団の身勝手な要求をのんで、繋(つな)ぎ役を引き受ける人などいるのだろうか。
〈殿はどう思います?〉と平本先輩に振ると、「一人だけおるなぁ」という答えが返ってきた。
しかるべき人。9月29日、サンケイスポーツの1面には『大洋、来季監督に関根氏』のスクープが載った。関根潤三、昭和2年生まれ、当時54歳。法政大学出身、平本の先輩だった。
「関根さんしかおらん。あの人には私欲というものがないから。もちろん、秘めたるところには怖い部分もある。あの根本さんが『関はヤクザや』というたぐらいやからな。でも、心優しい大先輩や」
関根は45年に広島の監督だった親友の根本陸夫に誘われ1軍打撃コーチに就任。山本浩二や衣笠祥雄、三村敏之ら赤ヘル黄金期を支えた名選手たちを育て上げた。長嶋が巨人の監督に就任した50年には、請われてヘッドコーチを務めており、長嶋とは気心の知れた仲。晴れて「長嶋大洋」が誕生した暁には、ヘッドコーチか球団代表のポストが用意されている―とも噂された。
〈そんな奇特な人がいるんや〉記者が関根の優しさに初めて触れたのはもっと先、62年にヤクルトの監督を務めていたときのことだ。
当時、ヤクルトには59年オフに阪神を退団した安藤統男元監督が、作戦コーチで入閣していた。対戦前の移動日練習。東京・神宮球場近くのグラウンドで、虎番記者たちは久しぶりに安藤コーチを取り囲んだ。懐かしい話に花が咲いた。ふと視線を他に向けると、関根監督がこちらを見ながら右に左にウロウロ、ウロウロ。視線が合うとニッコリ微笑みながら、こちらに歩み寄ってきた。
「みなさん、お話し中、申し訳ないが、そろそろ安ちゃんを連れて行っていいかな? コーチ会議が始まるんだよ」
「えっ、もうそんな時間ですか。監督、すみません。つい、話し込んじゃって。じゃあ、みんなも頑張れよ」と球場へ引き揚げていった安藤を見送ると、関根監督がまた口を開いた。
「申し訳ないね。君たちの大事な元監督をコーチに引っ張っちゃって。今のヤクルトには、安ちゃんがどうしても必要だったんだ。ちゃんとお返しするからね」
その場にいた虎番記者たちはみな、関根ファンになっていた。(敬称略)