虎番疾風録

仁義なき戦い?難しい監督選び 其の一20

第1次政権で背番号「1」をつけた阪神・吉田監督。右は背番号「3」をつけた巨人・長嶋監督
第1次政権で背番号「1」をつけた阪神・吉田監督。右は背番号「3」をつけた巨人・長嶋監督

虎番疾風録 其の一19

義理と人情にめっぽう弱く、ちょっぴり涙もろい村山実が「松木派」の後継者になると、その活躍とともに選手やOB会の主流は「松木派」になっていった。村山が現役を引退するとOB会長に田宮謙次郎が就任。村山が副会長を務め、ほとんどの役員を「松木派」が占めた。

数年に1度、役員改選が行われたが、いつも留任で顔ぶれは変わらない。ついには「藤村派」のOBたちから「密室選挙だ!」「誰に何票いったかを公表せよ!」とクレームがつく始末。OB会で絶大な力を持った「松木派」はしだいに「村山派」に変わろうとしていた。

一方の「藤村派」の跡目はクマさんこと後藤次男が引き継いでいた。その温厚な性格と人望が慕われ、中村勝広や川藤幸三ら若手が集まってきたが、「村山派」に対抗できる力はまだない。かといってこのまま、彼らに牛耳られるのは癪(しゃく)にさわる。そんな「藤村派」が対抗馬として担いだのが、一匹狼(おおかみ)的存在の吉田義男だった。

〈なんや、映画「仁義なき戦い」の代理戦争みたいですね〉とつい口を滑らせ、取材していたOBにえらく叱られてしまった。

余談だが、結局「村山派」は誕生しなかった。「松木さんが昭和61年に亡くなられてからも村山さんは、先輩の田宮さんをずっと立てていたからね。田宮さんを差し置いて…という気持ちだったんだろう。それに、村山さんがあまりにも早く亡くなられてしまったから」。平成10年8月22日、村山は直腸がんのため死去。61歳という若さだった。

その2大勢力が今また、「OB監督」誕生を目指して動き出した。吉田か村山か―。だが、平本先輩によると「だからよけい、難しくなった」という。

「阪神の本社上層部には、昔から球団フロントやOBとの間に根強い人脈があるんや。だから、いざOBから監督を―となると利害の絡(から)んだ自薦他薦で、必ず騒動が起きる。なかなか一本の線ではまとまらん。3年前に小津社長が無色の外国人監督(ブレイザー)を持ってきたのもそれがためや。もし今回、OBから選ぶとなったら…」

〈なるほど。吉田さんの後ろには前回、辞めたいきさつから田中オーナーがついている。かといって村山さんを外すとOB会がうるさい〉―というわけですね。

「龍も少しは分かってきたやないか。小津さんも頭を痛めてるやろ」

本来なら昨年、招聘(しょうへい)を諦めた広岡達朗が小津社長の「一番候補」になるはずだった。広岡はこの年もまだ評論家を務めていた。だが、情勢は一変していた。西武の根本陸夫監督が「ぼくの後のチームを任せられるのは、この男だけ」と、夏頃から猛烈なアタックをかけていたのである。(敬称略)

虎番疾風録 其の一21

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