虎番疾風録

火花散らした「藤村派」VS「松木派」 其の一19

阪神で一大派閥を築いた主砲の藤村
阪神で一大派閥を築いた主砲の藤村

虎番疾風録 其の一18

どちらが早く「第2次政権」を迎えるのか―。辞任を表明した中西太の後任問題をめぐって、阪神OBの間から再び吉田義男と村山実を推す声が起こった。その2つのグループをOB会の「吉田派」と「村山派」である―と、ずっと思っていた。ところが、あるOBによると、そんな派閥は今までに一度も存在していないという。

〈そんなアホな。これほどライバル関係にあった2人やのに?〉

古い話になる。昭和10年12月に株式会社、大阪野球倶楽部として創立された「大阪タイガース」。以来、「派閥」といえるものは、初代ミスター・タイガースと呼ばれ「物干し竿(ざお)」のようなバットでポカスカとホームランを打ちまくった藤村富美男を親分とする「藤村派」と、それに対抗する反藤村派。大阪タイガースの初代主将、2リーグ分裂後に監督に就任し、戦力のがた落ちとなったチームを個人資産をなげうって、再建に努めた松木謙治郎を担いだ「松木派」の2派だけ。この両派はことごとくぶつかったという。

30年のこと。25年から5年間、監督を務めた松木の後任問題で阪神は揺れた。後任が決まったのは、キャンプイン当日の2月1日。しかも就任したのは、プロ野球未経験の岸一郎(当時59歳)だった。早稲田大学とノンプロの満鉄倶楽部で野球はやっていたとはいえ、そんな素人に当時の阪神の猛者たちを抑えることは不可能に近かった。案の定、主砲の藤村ら主力選手たちは岸監督を公然と「年寄り」と呼び、指示に従わない。結局、開幕してわずか33試合を戦っただけで5月21日、岸監督は「病気休養」を理由に退団。藤村が「代理監督」を務めた。

その藤村の「代理」が取れ「監督」に昇格した31年に「事件」は起こった。

4番を打ちながら監督を務め、高圧的に選手を押さえ込もうとした藤村に対して反藤村派(松木派)の不満が爆発。シーズン終了後の11月に金田正泰、田宮謙次郎、吉田義男、三宅秀史ら主力選手12人が野田誠三オーナーへ「藤村監督退陣」を迫り、「それがダメなら全員退団する」と直訴したのである。

前代未聞の「藤村監督排斥騒動」。この事件は当時、阪神電鉄の東京出張所長だった戸沢一隆が球団代表に就任し、反乱分子一人一人を説得。年の暮れも押し迫った12月30日、反乱分子のリーダー格だった金田と藤村監督が手打ち。監督の留任を認めることで解決した。

この事件を機に阪神の選手やOBたちは、「藤村派」と「松木派」そして派閥に属さない3つのグループにくっきりと分かれた。その「松木派」の後継者として力をつけたのが34年に入団してきた村山実だったのである。(敬称略)

虎番疾風録 其の一20

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