
キャップの指令通り、本当に四六時中つきまとった。「お前ら、もうええ加減(かげん)にせぇ。勘弁してくれや」と何度、中西監督から言われたことか。そのたびに心の中で〈すんません〉と手を合わせた。
「中西退団へ」の記事が載った昭和56年10月13日、監督を追いかけて名古屋市内の知人宅にいた。応接間には「怪童」と異名を取った若き日の太っさんのパネルがいくつも飾られていた。〈相撲でいうタニマチさんなんや〉
午後3時過ぎ「成績不振を理由にしての退団は認めない」という球団側の方針が伝えられた中西監督は「気持ちはありがたいが、だからといって私の気持ちが変わることはない。とにかく明日(14日)の社長との話し合いの席で、私の気持ちを分かっていただく」ときっぱりと言い切った。
辞任の意志は固い。それを受けて小津球団社長の心も次の段階へと進んでいた。
「私の立場としては、慰留が失敗に終わったときのことも考えておかねばならないので、その点の情報収集はやっている」
すでに後任監督招聘(しょうへい)への動きを始めている―と示唆したのである。意中の人はもちろん広岡達朗だった。
広岡は昭和53年オフ、球団社長に就任した小津が、後藤次男監督の後任としてリストアップした「監督候補13人」の1人。当時、広岡はヤクルトの監督を務め「日本一」となった直後だったが、ヤクルト本社首脳との確執が噂された。
オールスター休み期間に催された激励会の席で、後援会から「巨人に勝つと商品が売れなくなる。だから勝たなくていい」と言われたことにショックを受けた―という話は有名である。
広岡は退団を決意していた。すでに後任監督には武上四郎の名前まで挙がっていた。そんなところへ、阪神からの誘い。広岡の心は動いた。ところが、ヤクルト本社上層部から「日本一監督をクビにしてはイメージが悪くなる」という声が起こった。説得された広岡は再契約。阪神への招聘は失敗に終わった。だが、それ以降も小津社長は広岡と何度か会合を持つなど、親密なつながりを保っていた。54年にヤクルトを退団。野球評論家として広岡は野にいたのである。
10月14日、この日は台風19号が紀伊半島沖を通過。関西、東海地方は朝から強い雨と強い風が吹き荒れていた。中西監督と一緒に午前10時3分、名古屋発の新幹線「ひかり3号」に乗り大阪へ向かった。激しい雨が列車の窓を叩(たた)いた。車中、中西監督は雄弁だった。
「阪神はきっとええチームになる。選手はええんやから、やり方次第でようなる。ワシも一生懸命やったけど、結果はあかなんだ。自分の才能の程度はわかってるつもりや。ワシが身を引くことで強くなれば悔いはない」
〈監督、お疲れ様でした!〉思わず手を握りしめたい衝動に駆られた。(敬称略)