「贋・久坂葉子伝」は翌昭和31(1956)年3月に筑摩書房から刊行された。昭和30年1月から10月にかけて「近代文学」に全10章のうち6章が連載され、また同時期に「VIKING」( http://viking1947.com/ )に連載した「エリザベス版久坂葉子伝」を合体するような形で単行本化された。
富士正晴にとっては最初の単行本出版であり、また代表作のひとつにもなった。冬樹社版(昭和44年)、六興出版版(56年)などがあり、講談社文庫(55年)、ちくま文庫(平成7=1995=年)、講談社文芸文庫(平成19年)で文庫化されている。
久坂葉子の鉄道自殺から4年。富士正晴はその間、同人であり弟子でもある久坂葉子の後始末に忙殺されたが、その強引さに仲間は反発し、久坂の遺族とは遺稿めぐって確執を重ねたあげく、自身で筆をとった作品だ。
久坂の自殺の報が富士のもとに届けられた昭和28年の正月から物語はスタートする。そこから続く現実の久坂騒動と、久坂の心情をさぐる過去とが交錯するメタフィクション。久坂の心情吐露には遺稿「幾度目かの最期」をはじめとして、詩や富士にあてた文章などがフルに活用されている。
富士は木ノ花(このはな)咲哉として登場する。大みそかにアヒルをつぶし、血の匂いを消すため焼酎をあおり年越しの酔いに包まれた木ノ花の寝床に、トッパーにズボン姿の久坂葉子が潜り込んでくる。
「ねえ、わたし来たのよ」「こんな時にどうしたんだい」「うふふ」「よせよ、おれ困るよ」
しかし、「彼女は黙ったまま、まつわりつくのを止めない。何か容易ならぬことが起るという感じがした」
エロチックな夢に血なまぐさい現実を予感させる見事な出だし。「贋久坂葉子伝」は全編、このような緊張感が漂う長編力作だ。
「文章の上に打ち立てようとした彼女の主張や生きざまを世の中にあらわにしたかった」という富士の思いが全編にあふれている。
久坂葉子はなぜ自殺に突進していったのか。作品に何を書こうとしたのか。富士とのかかわりをまじえながら、その心情が丹念に掘り起こされる。