■一度も口にせず
粗末な小屋に住み、母と兄が細々と家計を支えた。張本さんは貧しい生活に愚痴一つこぼさず、その強さも小林さんの生きる力になった。
2人は何をするにも一緒だった。小学生の時には、毛糸の手袋をグラブ代わりにキャッチボールの相手もした。「野球選手になって家を建てたる」。中学で野球部に入り、そう言って毎朝晩走りに出かける張本さんに自転車でついて行き、見守るのが日課となった。
張本さんが広島を出て高校野球の名門、大阪の浪華商業高(現・大阪体育大学浪商高)に入ると、「母さんのために頑張れ」と何度も手紙を送った。念願のプロ野球選手になった張本さんは真っ先に広島の家族のために立派な家を建てた。
張本さんとは今でも頻繁に電話をし合うほど仲がいいが、原爆の話は一度も口にしたことはない。「亡くなった姉は忘れたくないけれど、ピカドンは思い出したくない。家族で話すには悲しすぎるから」
■子供たちのため
小林さんは結婚して大阪での生活が長かったが、夫の死後、約15年前に息子が住む加古川市に引っ越した。人前で語り始めたのはその頃。「一度だけ」と頼み込まれ、同市内の小学生を前に被爆体験を話したことがきっかけだった。
「お姉さんの分まで生きて」。届いた感想文に涙があふれた。「子供たちには平和に暮らしてほしい。そのためには伝えないと」。今もあの日を忘れたい気持ちは変わらず、講演で胸が詰まって声が出ないときもある。それでも戦争や核兵器をなくしたいという願いが気力を奮い立たせる。
後押しするのは、メディアなどを通じて同じ願いを発信する張本さんら家族との絆だ。「弟とは直接話はしなくても互いの思いは伝わっている。亡くなった姉も私たちの後ろで『語り続けてね』と言ってくれている気がするのよ」。残りの生涯も語り部としてささげるつもりだ。
(西山瑞穂)