【本郷和人の日本史ナナメ読み】明治の女子教育(上)会津の気骨示した山川兄妹(2/3ページ) - 産経ニュース

メインコンテンツ

本郷和人の日本史ナナメ読み

明治の女子教育(上)会津の気骨示した山川兄妹

山川先生は会津藩で1千石を取っていた家老の家に生まれたのですが、その妹さんが、有名な大山(山川)捨松。大山巌(いわお)元帥夫人です。彼女は日本初めての「女性の官費留学生」として兄と同じ時に渡米。明治4年、満11歳のことでした。留学の予定期間は10年。異国の地で長い年月を過ごすことになる娘を、母のえんが「娘のことは一度『捨て』たと思って帰国を『待つ』のみ」という思いから、本来は「さき」という名を「捨松」に改名させたと伝わります。それくらい悲壮な覚悟で送り出したのですね。

列強に追いつけ追い越せの時代ですから、次世代のリーダーとして期待される若い男性はどんどん留学させ、外国の優れた学問・技術を学ばせる。これは国是でした。でも、それと並行して、しかるべき若い女性を留学させようという計画も立ち上がりました。立案者は黒田清隆。女性教育に強い関心をもった彼が、のちに酒を飲んで妻を斬るというスキャンダルにまみれたのは運命のいたずらというべきでしょうか。

当時は「女性に教育はいらない」という時代。政府が募った留学計画に応募した女子はわずか5人のみ。みな幕府や会津藩など、いわば「賊軍の家」の子供たちでした。彼女らの父母には、娘や妹を10年間の官費留学という国家事業に参加させ、ひとたび受けた賊の汚名をすすぎたい、家の名誉を回復したい、という意図があったのかもしれません。