自慢させろ!わが高校

福岡工業大付属城東高校(下)「人生の土台」養う3年間

部活動で生徒が獲得したトロフィーや、プロ野球に進んだ卒業生のユニフォームなどを飾るコーナー
部活動で生徒が獲得したトロフィーや、プロ野球に進んだ卒業生のユニフォームなどを飾るコーナー

 ■イメージ一新へピンクマン登場

 「男ばかり、不良ばかりのやんちゃな学校」。これが福岡工業大付属城東高校のかつてのイメージだった。

 昭和33年、福岡電波高校として誕生した。創立当初は志賀島につながる「海の中道」にあり、6年後に現在の場所に移った。

 工業系の高校であり、柔剣道などスポーツが盛んだった。

 昭和43年にはラグビーの全国大会に出場し、初優勝した。主将は、後に「秘密戦隊ゴレンジャー」で主演を務めた俳優、誠直也(まこと・なおや)氏(70)=同年卒=だった。

 同窓会会長で電子機器製造・販売会社を経営する中野武志氏(74)=福岡県志免町=は、福岡電波高校電気科の3期生だ。

 「生徒はとにかく豪放磊落(らいらく)。誠さんもそうだが、やんちゃなイメージそのものだった」

 そう語る中野氏の3年間は野球漬けだった。夏の甲子園の福岡県予選では、ベスト8に進出したのが思い出だ。

 学校はその後、昭和49年に福岡工業大学付属高校に、そして平成13年に現在の校名になった。

 その間、厳しい現実に直面した。

 国内では、若者の大学進学率が高まった。卒業生の大学進学数が、高校にとっての「通信簿」となった。よい成績を残せなければ、生徒や保護者から選ばれない。城東高校も一時、赤字に転落した。

                 ■ ■ ■

 平成9年、学校法人の理事長に鵜木洋二氏(78)が就任し、高校改革の号令をかけた。

 当時、若手教員だった佐伯道彦校長(49)も、改革に立ち上がった。

 佐伯氏は10年、公募で城東高校に赴任した。29歳だった。5年ほどたって、入試広報の担当になった。最大の任務は、志願者を増やすことだ。

 「まずは女子生徒を増やす。保護者が、わが子を通わせたくなるような学校づくりをしよう」

 福岡電波高校時代から、制度としては共学だったが、「女の子を通わせたい学校」とは、思われていなかった。

 校内のイメージを明るくしようと、努力した。

 クラス担任の教諭に依頼し、生徒の笑顔ばかりの写真を撮影した。校内で写真展を開いた。

 さらに生徒に「両親にこれまで育ててもらって、心に残っていること」などのテーマで、作文を書いてもらった。

 この文章と笑顔の写真を組み合わせた映像を作り、PTA総会で披露した。感動する保護者が続出した。

 校内の雰囲気は、少しずつ明るくなった。

 佐伯氏は、教職員の一人一人と会食し、訴えた。

 「チーム城東で、皆に愛される生徒を育てましょう。自慢の学校をつくりましょう」

 学校側も「入試広報」「進学」といった小委員会を校内に設け、若手教職員も参加するようにした。学校運営に主体的に取り組む意識を、一人一人に植え付ける狙いだった。

 教職員の間にも、より良い学校にしようという熱が、徐々に高まった。

 授業内容の充実も図り、進学に主眼を置いたコースも設けた。

 26年度には難関国公立大などを目指す特別選抜コースを設置した。同コースは1クラス30人以内で、平日7時間の授業をしている。

 もちろん、創立以来の歴史を持つ工業系学科の充実も急いだ。

 その中では、電気工事関連の国家資格を取得するよう、生徒に促した。

 「やればできる」。努力し、目標を実現することで、自信を持たせようという狙いだった。

 佐伯氏は「やんちゃにみえる生徒でも、単語帳で専門用語を一生懸命に覚えている。クラス全員で、そろいのお守りをかばんに付けるなど、一体感も生まれた」と語った。

 平成28年度の第2種電気工事士の合格率は、95・0%と、全国の高校で2位になった。

 電気科と電子情報科から選抜したスペシャリストコースも設けた。

 改革が実を結んでも、外部に知られなければ志願者は増えない。

 中学生や保護者対象の説明会にも、工夫を凝らした。

 説明会は、年に5回程度開く。入試広報担当の佐伯氏は、ピンク色の派手な服で登場した。その姿がはっきり見えるよう、会場の照明をあえて薄暗くするという細やかな演出だった。

 参加者の心をつかむために、話には必ずオチを用意した。大好きな3代目古今亭志ん朝の話芸を、参考にした。

 佐伯氏はいつしか「ピンクマン先生」と呼ばれるようになった。その派手な風体と話を面白がって、同じ中学生が何度も説明会に来ることもあった。生徒は会場にいた教職員と、顔なじみになった。

 そうした中学生が入学後、すぐに教職員と打ち解け、談笑する。そんな光景が当たり前になった。

 志望者は増えた。平成30年度入試の志願者は2205人で、20年度の1・3倍に達した。

 653人を送り出した今春の卒業式。佐伯氏は校長として「あなたたちが何歳になっても、自慢できる学校であり続ける」と述べた。

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 こうした改革を、後ろから支えたのが、平成21~28年に校長を務めた園田義男氏だった。

 園田氏は福岡県柳川市出身で、福岡電波高校の卒業生でもある。さらに、世界的な柔道家だった。

 1969(昭和44)年、メキシコシティーで開かれた世界柔道選手権大会では、階級の違う弟の勇氏(71)と、同時優勝を果たした。

 現役引退後、母校の柔道部部長となり、何人もの柔道家を育てた。

 代表格が、2000年シドニーと04年アテネの五輪で金メダルを獲得した谷亮子氏(42)=旧姓・田村、平成6年卒=と、シドニー五輪銅メダリスト、日下部基栄氏(39)=同9年卒=の2人だ。

 2人は卒業後も、園田氏を慕っていた。五輪前には城東高校の道場で最終調整をした。

 日下部氏は「義男先生は決して、力任せにこうしろとは言わなかった。選手がくじけそうになると『頑張るんだ。やればできるんだから』と、そっと声をかけてくれた。そんな義男先生のために頑張ろうと、五輪を目指した」と振り返る。

 園田氏は校長になってからも、生徒や教職員の努力を、背中からそっと押した。

 毎朝7時に校門に立ち、登校する生徒に「おはよう」と声をかけたという。

 そんな園田氏は今年1月、72歳で他界した。その教育方針は、城東高校や後輩に息づいている。

 日下部氏は現在、福岡大学(福岡市城南区)で、女子柔道部の監督を務める。

 園田氏がそうであったように、部員一人一人に目を配り、自身で練習内容を考えさせる。

 「人生は、選択の連続です。自分で物事を考え、判断するという自主性を、城東高校の3年間で養うことができた。それが、その後の人生の土台となってくれた。私の大切な思い出でもあり、宝です」 (村上智博)

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