昭和天皇の87年

ロシア旅順要塞を攻略せよ 悲劇の名将、乃木希典いざ出陣

 開戦3カ月後に編制された第3軍は、第1、第11師団を主力とし、のちに第9師団なども加わる総兵力5万人超の大軍である。

 乃木は37年5月25日に参内して明治天皇に拝謁、感謝とともに奮戦を誓った。このとき嘉仁皇太子から酒を賜わり、司令部で部下に分配したと日記に書いている。27日に東京を発った乃木は意気揚々で、「飲や酒 食へやまんしろ 心地よく」の句を詠んだ。

 だが、この喜びは長くは続かなかった。

 広島県宇品の軍港に向かう途中の30日、乃木より先に出征していた長男、歩兵第1連隊小隊長の勝典が戦死したとの一報を受けたのだ。

 乃木は日記に書いた。

 「勝典ノ事電報アリ、他言セズ」

 乃木の次男保典も満州の戦地にいる。乃木は妻の静子に、こう言い渡していた。

 「親子3人の柩(ひつぎ)がそろうまで、葬式をしてはならぬ」

 事実、乃木は死ぬつもりだった。しかし、旅順で乃木を待っていたのは、死よりも辛い惨劇だった--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1)乃木は日露戦争前に休職しており、開戦直前に動員されたものの、最初に与えられたポストは将兵の教育や補充、補給を担う留守近衛師団の師団長だった

○エレーヌ・カレール=ダンコース『甦るニコライ二世 中断されたロシア近代化への道』(藤原書店)

○和田政雄編『乃木希典日記』(金園社)より

○鹿島ト伝「乃木名将論」(中央乃木会機関紙『洗心』所収)

○明治37年6月2日の読売新聞

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