そこで大本営は第3軍を編成した。指揮をとるのは、のちに裕仁親王の帝王教育に深くかかわることになる、陸軍中将乃木希典(まれすけ)である。
乃木、このとき54歳。最前線に立つ司令官就任を喜び、こう詠んだ。
此儘(このまま)に 朽(くち)もはつべき埋木(うもれぎ)の 花咲く春に 逢(あ)ふぞ芽出たき
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乃木は戦後、人格は抜群でも戦術指揮官としては凡将、もしくは愚将と酷評されることが多いが、近年の研究では、若い頃から軍事面で非凡な才能をみせていたと再評価する見方が少なくない。
長府藩(長州藩の支藩)の中級藩士の家に生まれ、明治4年に22歳の若さで陸軍少佐に任官、福岡県の士族が起こした秋月の乱を鎮圧するなど武功をあげた。10年の西南戦争では歩兵第14連隊を率いて戦闘中、連隊旗を喪失して敵に奪われるという不名誉事件を起こすも、常に政府軍の先陣となって奮戦し、勝利に貢献している。
その後、連隊旗喪失などを悔やんでか、料亭に入り浸るなど一時放蕩(ほうとう)な生活を送る。しかし22~23年のドイツ留学で軍人のあるべき姿を悟り、以後は謹厳実直を貫いた。
25年に歩兵第1旅団長となった乃木は、27~28年の日清戦争に出征。遼東半島に上陸して早々に金州城を占領し、旅順攻略戦にも参加した。第3軍司令官への起用は、このときの経験を買われてのことだろう(※1)。
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