政府は5日、経済財政運営の指針「骨太の方針」案を提示した。新しい外国人就労政策が盛り込まれている。介護、農業、建設など5分野を想定し、新しい在留資格を創設する。これまで原則上、認めてこなかった外国人単純労働者の受け入れへと舵を切り、平成37(2025)年までに50万人以上の受け入れ目指すという。政府は「移民」という言葉を避けているが、事実上の移民国家化である。
安価な労働力の確保のため、日本語能力のハードルを下げた。求められるのは、日本語能力試験の「N4」で、これは「ややゆっくりとした会話であれば、内容がほぼ理解できる」水準である。さらに建設および農業の分野では「N4」も求めない。日本語の日常会話もままならない者の就労も認めるというのだ。
私は大きな懸念を覚える。経済的には、大規模な外国人単純労働者の受け入れは賃金の低下を招く。デフレ不況が長らく続く日本経済だが、デフレ脱却に必要なのは賃金の上昇と、それに伴う人々の生活の安定化だ。人々が安心して消費できる環境を作り出すことだ。外国人労働者の大規模受け入れはこれに逆行する。また、現在の少子化の一因は、若年者、特に若年男性の雇用の不安定化(非正規化)に伴う晩婚化である。外国人労働者の大規模受け入れにより、少子化はいっそう進み、外国人労働者にさらに頼るという悪循環にはまる恐れが大きい。
多くの社会問題の発生も招く。しばしば指摘されるように、学ぶべきは1960年代の西ドイツの経験である。労働力不足に悩んだ西ドイツは、トルコ人の単純労働者を大量に受け入れた。彼らのうち少なからぬ者が滞在期限が過ぎても帰国せず、語学上の問題から西ドイツ社会にも溶け込まず、各地で集住し、国内に多数のトルコ人街をつくった。社会の分断が進んだ。日本語が不得手でも受け入れるという今回の方針では、日本もかつての西ドイツと同様の難問を抱え込む可能性が高い。
なぜ欧州の経験から学ばないのか。端的に述べれば、外国人就労策を積極的に推進する層は、長期的観点からの「日本国民の生活の安寧」を第一には考えていないからではないか。外国人労働者受け入れは財界からの要望が強い。例えば、近年では東証1部の上場企業でも外国人株主の割合が増えた。株の所有でみると3割以上、売買高でみれば6~7割が外国の投資家によるものだ。株価は日本の国民生活の長期的な安寧や幸福に反応するわけではない。短期的な株価こそが自分の業績の指標だと考える近年の経営者の多くも、残念ながら日本国民の生活の安寧を第一には考えていないようだ。
また、外国人労働者の受け入れに反対すれば、「排外主義者だ」「人道にもとる」などという批判を受けるのではないかと恐れる心理も大きいのかもしれない。受け入れ賛成のほうがリベラルで人道的だと考えてしまうのである。しかし本当にそうか。私はそうは思わない。自らの経済運営の失敗を認めず、外国人労働者に安易に頼るのはリベラルでも人道的でもない。むしろエゴの極みではないか。本当にリベラルで人道的な立場とは、外国人単純労働者になど誰もならなくて済む世界、すなわち誰も外国へ出稼ぎせずに済む世界の実現に尽力することだ。具体的には、労働者送出国に対する継続的な国際援助である。国境を越えて安価な単純労働者を奪い合う現行のグローバルな経済秩序への無批判な支持こそ、非リベラルであり非人道的である。
政府に求められることは、声の大きい財界だけに影響されることなく、国民各層の声をよく聞き、日本の国柄に思いをはせ、長期的観点から国民生活の安寧と真に公正な国際経済秩序の実現を真摯(しんし)に探求することに他ならない。
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【プロフィル】施光恒
せ・てるひさ 昭和46年、福岡市生まれ、福岡県立修猷館高校、慶應義塾大法学部卒。英シェフィールド大修士課程修了。慶應義塾大大学院博士課程修了。法学博士。現在は九州大大学院比較社会文化研究院准教授。専攻は政治哲学、政治理論。著書に『英語化は愚民化』(集英社新書)、『本当に日本人は流されやすいのか』(角川新書)など。