明治維新150年 埼玉県誕生

歴史編(4)廃藩置県で県名曲折

県域の変遷
県域の変遷

 ■幻の「岩槻県」新政府の思惑

 明治新政府は旧江戸幕府による封建制度を見直し、中央集権国家づくりのため、行政区画の整備を急ピッチで進めました。

 まず慶応4(1868)年閏4月、旧幕府直轄地などを府や県とし、大名の藩領をそのまま「藩」として存続させる「府藩県三治制」に着手しました。いわば、3年後の廃藩置県に向けた暫定措置といえます。

 埼玉県域では忍、川越、岩槻3藩は、そのまま忍県、川越県、岩槻県となりました。また、江戸付近の旧幕府直轄地や旗本知行地を統括する武蔵知県事には3人が任命され、うち1人が忍藩士の山田一太夫(政則)でした。豊島、足立、埼玉、大里、児玉など北武蔵の中枢を占めていた11地域を管轄しました。

 ◆「大宮」わずか8カ月

 明治2(1869)年1月、武蔵知県事の2代目に就いた宮原忠英は着任早々、「大宮」の地に庁舎を建設し、大宮県とする構想を願い出ました。申請書によれば「大宮は支配地内で最も便利で、郷宿(ごうやど)(定宿)にも差し支えない土地である」と書かれています。こうして大宮に県庁(仮庁舎)が建設され、大宮県としてスタートしました。しかし、仮庁舎はあくまでも出張所にすぎず、正式な庁舎の建設は、懸案事項とされていました。

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