明治維新150年 埼玉県誕生

歴史編(3)「飯能戦争」 県民同士の衝突 官軍総攻撃で焼け野原に

 4月11日。江戸城が無血開城されると、肝心の慶喜は水戸へ退去してしまいました。一方の彰義隊はと言いますと、各地から脱藩兵らが集まり、勢力は3千~4千人まで膨れ上がりました。業を煮やした京都の新政府は、彰義隊討伐の方針を固めます。ついに5月15日、官軍は寛永寺一帯に立てこもる彰義隊に対し総攻撃を敢行し、撃破しました。

 実は、この上野戦争の前、彰義隊の幹部内で内紛が生じていました。「慶喜が江戸を退かれたからには、市中で戦うことは避けよう。江戸の町を灰にするようなことはやめるべきだ」。こう主張する成一郎に対し、副頭取の天野八郎は「何としてでも江戸に踏みとどまるべきだ」と訴え、全面衝突となったのでした。成一郎ら同志100人は天野派との摩擦を避けて、4月28日に田無村(現・西東京市)へ移りました。

 ◆「振武軍」最後の戦い

 この成一郎ら同志が結成したのが「振武軍」です。成一郎がトップで、尾高惇忠(あつただ)が参謀長、惇忠の実弟の渋沢平九郎(渋沢栄一の養子)が参謀でした。3人とも血洗島出身者でした。成一郎らは官軍との最後の戦いの場をどこにすべきかを議論した結果、武州高麗郡「飯能」が攻守に最適であるとの結論に達し、5月18日、飯能の羅漢山(現在の天覧山)のふもとにある能仁寺を本陣にしました。付近にあった観音寺、広渡寺、智観寺、心応寺、玉宝寺の5寺にも屯所を置きました。

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