文化の遺伝子

具体美術(1)吉原治良の夢 人のまねをしない芸術 作品タイトルは「作品」

 この組織における吉原の影響力は絶大だった。

 河崎教授はいう。「吉原の目をパスしたものしか展示できなかった、という意味において、『具体』は彼の作品だった」

 具体美術協会の47年の解散が、吉原の死去の約1カ月後だったという事実が、それを示してもいよう。

 だが、協会が解散してもなお、吉原の影響力は当時のメンバーのなかにある。

 向井は言う。「私は、いまだに自分の作品のタイトルに『作品』を使っています」

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 関西で育まれ、発展した芸術、芸能をひもとく新企画「文化の遺伝子」の初回のテーマは「具体美術」を取り上げます。

【用語解説】具体美術協会  

 昭和29(1954)年、前衛美術のパイオニアとして活動していた吉原治良と、作品の批評を受けていた若手作家らが兵庫県芦屋市で結成。「精神が自由であることを具体的に提示」するという理念のもと、代表の吉原の「だれもやっていないこと」「これまでにみたことのないもの」を求める指導により、初期は先鋭的なパフォーマンスで話題を集めたが、30年代前半からの海外進出に伴い、活動の中心を絵画に移した。機関誌の発行や現代美術を紹介する施設「グタイピナコテカ」を大阪市内に設けるなど独自の活動を行い、白髪一雄や元永定正ら多くの美術家を輩出したが、吉原の死とともに昭和47年解散。

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