【正論5月号】父の敵を崇拝する男 習近平は第2の毛沢東になるのか 静岡大学教授 楊海英(2/5ページ) - 産経ニュース

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正論5月号

父の敵を崇拝する男 習近平は第2の毛沢東になるのか 静岡大学教授 楊海英

 まず、カリスマ的支配である。

「建国の父」たる毛沢東はカリスマ的支配の重要性を認識していた。中華民国に対して反乱を起こし、鎮圧されて弱小勢力となると、毛沢東は配下の紅軍を率いて、国民党軍の掃討から逃亡しようとして南国江西省を発った。歴史上の農民反乱軍のように特定の方向もなく、四川や貴州といった南西部の山奥にまで逃げ込み、名実ともに「流賊」となる。その後はチベット東部を経由して北部中国の陝西省の延安を目指し、北上する。実は、毛沢東が辿った道は、有史以来、モンゴル高原の遊牧民が南下してシナを征服する際のルートだった。毛沢東はそのルートを遡っていって、全滅から逃れることができたのである。私は実際に毛沢東の行軍路線を歩いて、実証したのである(楊海英『モンゴルとイスラーム的中国』文春学藝ライブラリー)。

 北部中国へ移動していく途中に、毛沢東は不名誉な逃避行を次から次へと神話に変えていった。「毛は不死身だ」とか、「毛は救世主だ」とかの伝説を広げながら一路、陝西省を目指したのである。江西省を発った時に約10万人いた兵士は延安に落ち着いた時には3万人ほどに減っていたが、それでも、毛沢東らは逃避行を「長征」や「北上抗日」との美談に作り変えた。

 毛沢東ら南国からの紅軍を地元陝西省北部の共産党員たちは歓迎しなかった。「地元の英雄を殺さない限り、人心は得られない」と判断した毛沢東はその有力者の一人、劉志丹を暗殺した。そのため習仲勲と高崗らは屈服せざるを得なかった。それだけではない。ほとんど字も読めないシナの大衆を相手に、自らの権威を確立しようとした毛沢東は、歴代皇帝と同じように、民謡を利用した。陝西省北部の素朴な民謡に革命的な歌詞を吹き込んだ、『東方紅』である。

東方は紅色に染まって太陽が昇る。

中国には毛沢東という男が現れた。

彼こそ人民の為に幸せをもたらし

彼こそが人民の救いの星だ。

 地元の英雄劉志丹を殺害して、新しい「救世主」となった毛沢東のこうした宣伝はライバルの蒋介石を遥かに凌いだ。日本にも留学した経験を持つ蒋介石は『中国の命運』という著作をしたためて国民の一致団結を呼びかけたが、その影響力はごく一部の秀才階層の範囲内でしか広がらなかった。毛沢東の方が最終的に勝ち、1949年に北京入城を果たして、それまでに清朝の皇帝が座っていた権力の座についた。

 中国共産党と毛沢東の神話づくりに協力したアメリカ人のジャーナリストが、共産主義シンパのエドガー・スノーである。毛沢東自身の加筆と検閲を経て出版された彼の『中国の赤い星』(ちくま学芸文庫)は、世界中にユートピアのような中国共産党のイメージを伝えた。最も深刻な「中毒症状」に陥ったのは日本の中国観察者たちで、騙された日本の中国学者と称する人たちは『中国の赤い星』が描く「理想的な中国とその偉大な指導者」に憧れただけでなく、学校教育や学会活動を通して、ありもしない「美しい中国」の虚像を日本社会に広げてしまった。

反マルクス・レーニン主義の毛沢東思想

 「皇帝」となった毛沢東はずっと彼と同じ出身地の南方系の共産党員たちを重用した。陝西省北部出身の共産党指導者で、かろうじて生き残っていた高崗は日本が撤退した後の旧満州の最高指導者となり、中国も参加した朝鮮戦争を支援した功績で国家副主席となるものの、1954年夏に自殺に追い込まれる。もう一人の習仲勲も国務院副総理となるものの、1962年に失脚する。かの劉志丹を描いた小説の執筆と出版を支持した、と毛沢東らに因縁を付けられたからだ。習仲勲は毛沢東が発動した文化大革命中にその故郷の陝西省に連行され、長期間にわたって暴力を受け、身をもって共産主義体制の非人道的な実態を経験した。