正論5月号

シベリア出兵の美しき真実 ポーランド人を救った日本人 ジャーナリスト 井上和彦

 日本軍は、1918年8月にウラジオストクに上陸した後、東は北樺太、西は9月にハバロフスクに進出した後、シベリア鉄道沿いにチタからバイカル湖のあるイルクーツクまで進出している。

 そんな列強干渉軍は、ロシアの反革命軍(白軍)らと共にボルシェビキ勢力と各地で戦闘を繰り広げたが1918年11月に第一次世界大戦が終わり、その後各国軍が撤収する中、日本軍は撤収せず極東地域に留まって戦い続けたのだった。日本が撤退しなかったのは、革命の波及を恐れ、この地に緩衝地帯をつくりたかったからにほかならない。つまり日本の安全保障上の理由からだった。

 そしてその結果としてポーランド孤児を救うことができたのだ。

 さらにこの出来事は博愛の連鎖を生んだことも付け加えておきたい。

 日本に助けられたポーランド孤児たちの中には、その体験をもって、第二次世界大戦中に迫害されたユダヤ人を命がけで守った人もいたのである。

脈々と続くポーランドとの交流

 そしてポーランドはこの孤児救援のことを忘れていなかった。

 平成7年と8年、ポーランド政府が阪神淡路大震災の被災児童らをポーランドに招待し、ワルシャワで4名のポーランド孤児との対面などを通じて子供達らを温かく励ましてくれたのだった。

 その後も、ポーランド政府は、平成23年に発生した東日本大震災で被災した岩手県と宮城県の子供達を2週間もポーランドに招いてくれた。

 さらに昨年平成29年7月には首都ワルシャワで開かれた第5回養護施設児童のためのサッカーワールドカップにも、かつてポーランド孤児を受け入れて養護した福田会の児童らを招くなど、100年前のポーランド孤児救出劇への感謝はいまも色あせることはない。

 福田会の常務理事・土屋學氏はこんなエピソードを披露した。

「平成23年7月、ポーランド大使のヤドビガ・ロドヴィッチ・チェホフスカ大使が広尾をジョギング中に『福田会』のプレートを発見され、『ひょっとしてここは、かつてシベリアからポーランド孤児を助けてくれた福田会ですか』と尋ねてくれたんです。そこから再びポーランドとの交流が始まったんです」

 平成24年(2012)4月には、ポーランド大統領令夫人アンナ・コモロフスカ氏が福田会に来園し、「シベリア孤児救済完了90年」の記念プレートが寄贈され、平成27年2月にも再びアンナ・コモロフスカ氏が来園されるなど、かつてポーランド孤児救援を源流とした日本-ポーランドの交流はますます活発化している。

 駐日ポーランド共和国大使館の広報文化センター所長のマリア・ジュラフスカ一等書記官はいう。

「このポーランド孤児救援の出来事は、実に感動的な話であり、いまもポーランドでは語り継がれています。是非とももっと日本人に知ってもらいたいと思います。いまでもポーランド政府は、日本国に感謝しています。あまり知られていないようですが、歴史的にポーランドと日本はたいへん密接な関係を続けてきたのです」

 実は、ジュラフスカ氏の言葉にあるように、日本とポーランドの絆は、このシベリアからの孤児救出の前から、正確に言えば日露戦争(1904年)の頃から始まっており、さらに驚くべきことに第二次世界大戦中も日本とポーランドはずっと繋がっていたのである。

 ロシアの支配下にあったポーランドにとって、極東で日本がロシアと戦争を始めてくれれば、これを契機に立ち上がれる。

 一方、日本は、ポーランドからロシアに関する情報を入手し、ポーランド人の協力を得て内側からロシアを弱体化させることもできると考えた。

 互いの利害は一致していたのである。

 そうして二人のポーランド人が日本を訪れた。

 後の初代国家元首となるポーランド社会党の活動家であったユゼフ・ピウスツキは、日露戦争を機にロシアに対する武装蜂起を考えた。

 これに対して、ロマン・ドモフスキは、武装蜂起には反対しつつも、日露戦争における日本への支持を表明し連携を考えていた。

 ピウスツキらは、日本軍と共にロシア軍と戦う断固たる決意をもって「ポーランド軍団」の創設を提案し、またロシア軍の中のポーランド兵士の日本軍へ投降、さらにシベリアにおける鉄道などへの破壊活動を日本に申し入れている。

 この当時の極東地域のロシア軍の中のおよそ3割がポーランド兵だったようで、戦闘の重大局面におけるポーランド兵の離反は、ロシア軍にとって大きな痛手となる。物理的な防御力の低下に加え、著しい士気低下を招きかねなかったはずだ。いずれにせよポーランドの独立指導者らはそんな提案までしていたのであった。

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