人災ならぬ「韓国災」と呼ぶべき困難な後半戦の始まり…。リッジウエイ将軍の回顧録は《頻繁に逃げ出した》韓国軍への怒りで満ちあふれる。
《韓国軍の態度だけが私の悩みだった。進撃する中国軍は韓国軍部隊を次々と敗走させ、そのたび韓国軍は補充困難な、高価な多数の(米国供与の)装備を放棄した》
51年5月の東部中央戦区では、人民解放軍の攻勢に韓国軍が、戦線の遙か後方に駆逐されたが-
《退却する韓国軍が放棄した装備は、肩をすくめるだけで済むものではなかった。それは完全装備の数個師団を充分に装備できた》
人民解放軍は韓国軍の米製兵器を鹵獲(ろかく)した。《米軍が米軍の装備で殺された》のである。
けれども、韓国の李承晩大統領はメンツに固執し、韓国軍の前線配備を譲らず、《非武装の巨大な韓国の人的資源を米国の武器で武装させれば、米軍の兵員は少なくて済む》と言い張った。リッジウエイ将軍によれば《李大統領の第一の課題は、彼の軍隊に充分な統率力を確立することであった》。だが、そもそも、李大統領自身が戦争勃発時に国民や将兵を置き去りにし、韓国南部へと「三十六計」を決め込んだ不適格者だった。