学生のころ「何でも見てやろう」という小田実(まこと)(1932〜2007年)の旅行記を読んで、旅の考え方が少し変わった。
それまで、旅とは修学旅行や家族旅行を指すもので、彼のように貧乏旅行で世界を巡ることなど、個人的には思いもよらなかったのである。
1日1ドルで世界を回るか…。
おもしろいけれど、間違っても自分がそうした旅をすることはないだろう、と思った記憶がある。体重50キロを切る貧乏学生には、そんなバイテリティーなどあろうはずがない。そんなカネを持っていれば、うまいものを食うわ、と。
そもそも、故郷を離れてひとり暮らしをしているのだから、見る物聞く物みな新鮮で、旅をするなど思いつかなかった。
しかし、齢を重ねたいまならよくわかる。
旅は生きた教科書である、ということが。
その地へゆき、その目で見、感じることでしか得られないものがたくさんあるということを。
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富岡鉄斎(1836〜1924年)は、幕末から大正にかけて生きた京都の文人画家である。幼いころの病のせいで、耳が少し不自由だったが、勉強の好きな子どもで、いろいろな学問を学んだようだ。
歌人で陶芸家としても知られる大田垣蓮月(1791〜1875年)の侍童となり、そこでさまざまな絵画を学んだ。20代半ばには長崎へ遊学して南画を学んだりもし、絵で生計を立て始めている。また、私塾を開設し、勤王の志士たちとも交わった。
維新後は、そうした交友のおかげもあって、大きな神社の神職を務めている。
教育者としても立命館で教員をしたり、京都市美術学校で修身を教えたりしている鉄斎だが、1876年に描いた「日本絵図」の画賛に「南は鬼界島から北は北海道まで、一剣を帯びて海山のすぐれた景色を探し」とあるように、若いころから旅好きで40歳にして全国を巡歴したことを明らかにしている。
この「日本絵図」は、兵庫県宝塚市の清荒神清澄寺山内にある鉄斎美術館( http://www.kiyoshikojin.or.jp/tessai_museum/ )で開催中の「鉄斎の旅-足跡、天下に遍(あまね)し-」で見ることができる。
その絵図のなかには、名所旧跡なども描き込まれている。
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自由な往来が禁止されていた江戸時代でも、お伊勢参りや金比羅参りなど信仰を目的としたものであれば通行手形が出たことから、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」や歌川広重の「東海道五十三次」が火付け役となって江戸後期には旅がブームとなっていった。
そうした庶民の物見遊山とは別に、松尾芭蕉ら俳人たちは、俳句の仲間の招きで全国を行脚し、幕末の志士たちは国防を意識して海岸線を回り、人材を訪ねて諸国を旅した。
鉄斎の旅は、後者に近い。
「万巻の書を読み、万里の道をゆく」
明代の文人、董其昌(とうきしょう)の言葉を座右の銘に、鉄斎もまた文人としての志をもって旅をしたようだ。
鉄斎の旅はどんなものだったのか。