【今こそ知りたい幕末明治】(51)小倉藩の英彦山勤王僧弾圧 守友隆 - 産経ニュース

メインコンテンツ

今こそ知りたい幕末明治

(51)小倉藩の英彦山勤王僧弾圧 守友隆

英彦山神宮内の招魂社にある維新殉国志士の墓地
英彦山神宮内の招魂社にある維新殉国志士の墓地

 小倉藩小笠原家は、初代藩主小笠原忠真が徳川家康のひ孫ということもあり、譜代大名ではあるが、「準・徳川一門」といえる存在であった。

 そうしたことから、幕末、藩内で活発な尊王攘夷運動は起こらなかった。ただ、尊王攘夷主義者、勤王家がいなかったかと言えばそうではない。

 例えば、幕末の小倉藩主小笠原忠幹(ただよし)の弟、小笠原敬次郎(諱は棟敬、貞大、号は敬斎)という人物がいる。彼は「内心は硬き勤王」の志を抱いていたとされる。兄の忠幹が小倉藩主となった後の文久2(1862)年8月、「御政事御世話」(小倉藩の政治顧問)として招かれたが、家老の島村志津摩や小宮四郎左衛門(のちの民部)と対立した。翌文久3年9月、職を辞して江戸に赴くことになったが、同月10日、稽古中に弓の弦で動脈を切り、出血多量で亡くなったという。

 他にも、西田直養(なおかい)、佐久間種などといった国学者として名を馳せた藩士もいた。それでも、他藩のような勤王党が組織されることはなかった。

 しかし、藩の領内には勤王(尊王攘夷)派の総本山と目された山があった。英彦山(ひこさん)(彦山)である。現在の福岡県と大分県にまたがる修験者(山伏)の大道場であった。

 文久3(1863)年8月下旬、「胡乱体」つまり「うさんくさい」とされた人間の取り締まりが、小倉藩の郡奉行から郡方役人に命じられた。これは京都で起こった8月18日の政変を受け、尊王攘夷派の志士の動きを封じようというものだった。

 さらに、小倉藩領の者は長州藩領に渡海することが禁止されたという。だが、英彦山の者が長州藩領に往き来しているという情報を小倉藩庁はつかんだ。

 同年7月16日、長州藩の2人が、「石州(石見)者」と偽って英彦山に登り、英彦山座主らと面会した。長州の2人は、兵器・兵糧・金子3千両の提供を条件に、英彦山において練兵を行った上で、攘夷を実行するように求めた。具体的には、豊後国日田を攻め取り、さらには小倉を攻める計画であったという。

 小倉藩庁は、この両者の接触を把握していた。さらに文久3年11月上旬、英彦山に、「浪人六十人」が集まっているという知らせが藩庁に入った。同月10日、二木(ふたつぎ)求馬を士(さむらい)大将とする一隊(300〜500人とも)が急ぎ、英彦山に派遣された。

 もっとも「浪人六十人」は誤報であった。「六十才計りの老人」が英彦山に登ったことが「六十浪人」と記され、さらに「人」の字が書き加えられて「浪人六十人」となったという。

 ただ当時、英彦山はそのような噂が流れても不思議でない情勢であった。実際、英彦山が長州藩に「合体」する動きがあった。そのため、二木求馬率いる一隊は英彦山に留まった。

 当時の英彦山座主の教有(きょうゆう)(のち高千穂教有)の母は関白、一条忠良の息女で、三条公修(三条実美の祖父)の養女であった。教有は、尊王攘夷派公卿の代表とも言うべき三条実美と親戚であったのだ。加えて、8月18日の政変で、三条実美を始めとする七卿が京都から長州藩領へ落ち延びると、三条実美のもとに、英彦山の山伏7人が長州に派遣された。

 そのようなことがあって、文久3年11月22日、教有は小倉藩庁に呼び出された。教有の家族も小倉に連行され、軟禁された。教有が英彦山に帰山を許されたのは翌元治元(1864)年10月であった。

 また、山伏達のなかでも長州藩に賛同する政所(まさどころ)坊を始めとする山伏10人が小倉に連行され、投獄された。俗に「英彦山事件」と呼ばれる。

 慶応2(1866)年8月1日、小倉城自焼の日、6人の山伏が小倉の牢で処刑された。英彦山山中では現在もこの事件や元治元年の禁門の変に長州勢として従軍した山伏達を「義僧」として祀っている。

 本文は、薩摩藩島津家の一門である加治木島津家の家臣で、さらに藩命で近衛家に仕えた葛城彦一(竹内経成)が、小倉藩の寺社奉行兼町奉行、上條八兵衛から聞き出したことを薩摩藩庁へ報告した「覚」を主な典拠とした。小倉藩の史料には、この事件に関するものをほとんど見出すことが出来ないが、決して忘れてはならない幕末小倉藩の出来事である。

                   ◇

【プロフィル】もりとも・たかし

 昭和56年、山口県柳井市生まれ。九州大文学部卒、同大学院博士課程修了。博士(比較社会文化)。平成23年4月から北九州市立自然史・歴史博物館(いのちのたび博物館)学芸員。昨年秋開催の特別展「最後の戦国武将 小倉藩主 小笠原忠真展」担当。