文芸時評

3月号 早稲田大学教授・石原千秋 五輪は敗者のためにもある

 山城むつみ「カイセイエ--向井豊昭と鳩沢佐美夫」(すばる)もいい。アイヌの作家・鳩沢佐美夫について「鳩沢の置かれていたのは、ただの〈人間である〉という単純な事実が、〈アイヌである〉という形でしか現れ得ない状況の中だった」と言う。これはある意味で理不尽であり、ある意味で当然なのだ。理不尽なのは「人間」という概念を普遍的なものだと捉えたときであり、当然なのは「人間」という高度に抽象的な概念はそのまま形にはなり得ず、必ずある具体性を持って現れる以外にはないと捉えたときである。日本語はそのままでは規範にすぎないのでこれをラングと呼び、現実に話される個々の具体的な形をパロールと呼ぶ。だから、鳩沢佐美夫はアイヌのユーカラを文学に活(い)かそうとする。「人間」であり、同時に「アイヌ」たらんとしたのだ。人はたとえば「雍子女王」であり、同時に「人間」でなければならない。森田真生「計算と仮説」(新潮)は、「どんな状況でも通用する『汎用(はんよう)』の知性などあり得ない」と説く。つまり、状況の中にない「記号」などあり得ないということである。戦後日本における「記号」とは何だったのかと考えた。

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