平昌五輪

欧州製はダメ、日本人には日本の板を…国産スキー板でメダルを狙う湯浅直樹、メーカーとの二人三脚の歩み

 湯浅は札幌市出身で中学3年から「ハート」を履き続け、回転競技で世界に挑んでいる。世界の表舞台で初めて輝きを放ったのが2005年のワールドカップ(WC)第3戦。スタート順が遅いほど荒れたコースを滑る回転で、50番目のスタートながら2本目に進出。そこで最速タイムを記録し、入賞(7位)を決めた。

 翌06年のトリノ五輪では猪谷以来、日本アルペン勢として半世紀ぶりに入賞(7位)。さらに12年のWC第4戦では日本男子4人目の表彰台となる3位。国産のスキー板を履いた日本人として初めての表彰台で、国内外の用具業界に衝撃を与えた。

熾烈なスキー用具の開発競争

 映画「私をスキーに連れてって」がヒットした1980年代後半頃はゲレンデに「カザマ」(旧・新潟県新井市)や「ニシザワ」(長野市)など日本製の板があふれていた。しかし、バブルの崩壊とともにスキー人口が減少、日本製は徐々に姿を消した。現在は、「オガサカ」(長野市)が柔らかく小さな力でも動かせる板で、規定された滑りの技を競う基礎スキーの世界で存在感を示しているに過ぎない。

 アルペン界では、1990年代前半頃まで「ヤマハ」(浜松市)などが奮闘。1992年のフランス・アルベールビル五輪男子回転でノルウェーのヤッゲがヤマハを履いて金メダルを獲得し、初めて日本のスキー板が表彰台で高く掲げられた。しかしそれを最後に日本製は注目されなくなり、ヤマハも97年にスキー事業から撤退した。

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