とりわけ、水戸学の大家、会沢正志斎らとの邂逅(かいこう)は転機となつた。帰国後、『日本書紀』『続日本紀』を直ちに読み始め、身皇国に生まれて、皇国の皇国たるを知らずんば、何を以て天地に立たんと嘆声を挙げてゐる。
これが松陰の「日本」発見である。それは、例へば本居宣長の発見した「日本」とは異なる。宣長は『古事記』に漢心(からごころ)以前の日本の心の質朴さを、『源氏物語』にもののあはれを見いだしたが、松陰は『日本書紀』に、古代日本史における歴代天皇の雄大な国際経営を発見したのである。
日録によれば、帰国後半年の間、松陰の読書は『詩経』『名臣言行録』『孟子』と漢籍に戻り、再び『日本逸史』『続日本後紀』『三代実録』『職官志』『令義解』『日本外史』、そして再度翻つて『史記』『漢書』を繙(ひもと)き、日支の歴史・精神の比較研究の様相を呈してゐる。ところが、かうした日本国といふネーションの自覚の過程が、松陰にあつては単純な排外主義にはつながらないのである。寧ろ、九州遊学、佐久間象山らとの交際による正確な国際情勢認識と共振してゆく。