昨年12月20日に公開された外交文書は東アジア現代史の暗流を物語っている。中でも中曽根康弘元首相と中国の故・胡耀邦総書記との交渉は、重要な意味を持っていたことが分かる。
≪たった一度の日中「蜜月期間」≫
2人が日中両国の間に一度しかなかった「蜜月関係」を構築していた頃、私は北京の大学で日本語を学んでいた。胡氏が招待した3000人の日本人青年を迎えた北京の学生たちが、1984年国慶節の10月1日に天安門広場で一晩踊り明かしたことは、青春の記憶の一つとなっている。
86年11月8日に訪中した中曽根氏は北京人民大会堂で会談し、韓国の全斗煥大統領が中国との国交樹立の意向を持っていると伝えた。また、「日朝間も貿易を行う用意がある」とし、北朝鮮との調整を胡氏に依頼した。
胡氏は南北が対話を通じて連邦制を取る必要があるとの見解を語り、平壌に提案したところ、金日成の不満を買ったという。胡氏はさらに、信頼する中曽根氏に翌87年に開かれた共産党大会で「年寄りを引退させる」との機微の話を打ち明けた。そのことも一因となり、直後に失脚に追い込まれた。
視点を変えて、内陸アジアの立場から胡氏らが描いていた壮大なビジョンを振り返ってみよう。