〈昭和58年12月の衆院選で旧福岡1区に立候補しトップ当選。3期目で国会対策委員長に就く〉
国対委員長になってすぐ、平成2年の8月にイラクのクウェート侵攻が起きました。米国を中心とする多国籍軍が反撃するという流れになり、日本は90億ドルの追加支援をしましたが、やっぱり汗を流して貢献することが必要ということになったんです。
〈公明党は安全保障に関する党内議論を先行させていた。きっかけは議席を減らした元年の参院選だった〉
冷戦が終わり、国際情勢は変化しており、今までのように「何でも反対、反対」と言っているだけではすまない。野党としても責任ある対応をとる必要がある-と、市川(雄一書記長)さんが中心となって徹底的に話し合っていました。
〈政権に参画する機運も生まれていた〉
公明党が結党時から掲げる党是は「福祉の党」と「日本の柱」と2つあります。日本の柱というのは、日本の政治で責任を果たすということです。衆参のねじれは常態化していました。それで政治を安定させ、政策を実現するために公明党が連立の中に入るのも選択肢の一つではないかということになっていったんです。最初に連立を組んだのは細川護煕政権でした。自民党に代わる新しい政権、勢力を作ろうと参加したんですが、失敗に終わりました。
6年に新進党の結党に加わりましたが、わずか3年で解党しました。公明党としては新進党にはかけていたんです。公明党を解党してまで合流したんですから。新進党の失敗で、やっぱり公明党を作り直して頑張るしかないということになりました。
自民党との連立の話を始めたのは小渕恵三政権のときです。ただ「今まで反自民でやってきた。すぐ自公というわけにはいかない」と何度も伝えました。空気を醸成するのに1年くらいかかりました。
〈12年に自民党と連立を組んでいた自由党が離脱。小渕首相が倒れた〉
4月ですね。3党首会談をすることになりました。激しくやり合い、ついに小渕さんと小沢(一郎自由党党首。現同党代表)さんと2人きりで話すことになった。20分くらいで出てきて、自由党との連立解消を発表された。2人が何を話したのか今も分かりません。小渕さんは私に、「これまで公明党は誠心誠意やってくれた。これからもよろしく」と言われました。それが私の聞いた最後の言葉でした。あんな展開になるとは思いもよりませんでした。
〈後継の森喜朗政権は密室で決まったとされ、当初から支持率は低迷していた〉
13年夏に参院選を控えており、また負けるようなことがあってはいけないと思いました。自民党内も危機感は共有しているのに、誰も動こうとしない。仕方なく、私が表に出て「森降ろし」の流れを作るしかないと思いました。
〈13年2月にハワイ沖で教育実習船が米潜水艦に衝突され、沈没する「えひめ丸」事件が発生〉
森首相の危機管理対応を批判し、退陣すべきだという発信を始めました。「森降ろし」の流れを加速させようと連日、記者懇でも言いました。産経新聞にも随分書いていただき、自民党内も呼応する動きが出てきて、予算成立後に辞任されました。森さんが辞めなければこっちが辞めるしかないと腹をくくってやったことでした。(聞き手 佐々木美恵)