劇場型半島

大韓航空機爆破犯の金賢姫元工作員はなぜ「横田めぐみさんは生きている」と確信しているのか

【劇場型半島】大韓航空機爆破犯の金賢姫元工作員はなぜ「横田めぐみさんは生きている」と確信しているのか
【劇場型半島】大韓航空機爆破犯の金賢姫元工作員はなぜ「横田めぐみさんは生きている」と確信しているのか
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 乗客乗員115人が犠牲となった大韓航空機爆破テロから2017年11月29日で30年となったのに合わせ、実行犯の金賢姫(キム・ヒョンヒ)元工作員(55)へのインタビューを行った。金元工作員は、事件当時、死を覚悟した瞬間や、拉致被害者の横田めぐみさん(53)との出会いについて、北朝鮮で教え込まれた日本語で丁寧に語っていった。金元工作員は、この30年間をどのような思いで過ごしてきたのか。インタビューの詳細から改めてたどった。

(ソウル 桜井紀雄)

 《インタビューの途中、金元工作員がとめどなく、涙を流したことがあった。めぐみさんの母、横田早紀江さん(81)から預かったメッセージを読み上げたときだ。次のような内容だった》

 「しばらくお会いしていないので、お元気がどうか気になります。

 とてつもない数奇な運命の中で、本当につらいこと、苦しいことがたくさんあったと思います。どうかお元気で、強くお過ごしいただきたいと祈っています。

 夫の滋は足腰も弱り、それでも、めぐみちゃんへの思いを胸に、必死で頑張っています。私も声帯が衰え、声がうまく出ず、夫の介護が大変で倒れそうになることもありますが、懸命に踏ん張っています。

 国際情勢は、厳しい状況になっていますが、私たちは、最後まで信じて、拉致被害者を取り戻すまで闘っていきます」

 金元工作員「早紀江さんからのメッセージを読んでもらえるとは思わず…。本当に、お母さんからのメッセージが来たようで、とても涙が出ます」

 《金元工作員は2010年7月に長野県軽井沢で、早紀江さんと夫の滋さん(85)と対面している》

 --日本で早紀江さんと面会したときも「お母さんのように感じ、泣いてしまいました」とおっしゃっていた

 「私のお母さんより、何歳か若いですけど、(すすり泣きながら)早紀江さんがめぐみさんを懐かしんで待っている気持ち。きっと、私のお母さんもそうだっただろうと、早紀江さんを見たら、私のお母さんを思い出して」

 「その後、メッセージカードと小さな贈り物をしました。早紀江さんも夏に着るきれいなセーターを贈ってくださいました。今もその服を見たら、お母さんの温かい気持ちをしみじみと感じながら、ありがたく思います」

 --お会いして印象に残ったことは?

 「『めぐみさんを見ているようだ』とおっしゃり、私を慰めてくれて。私が『苦難の道を歩いてきたが、元気に生きている。めぐみさんも北朝鮮で私のように元気で生きていて、きっと会う日がある』とおっしゃった。お母さんみたいに、抱いてくれたり…」

 《金元工作員は、大韓航空機事件の3年前、仲のよかった金淑姫(スッキ)工作員とともに、淑姫氏の日本語教育係をかつて務めた横田めぐみさんが暮らす招待所をこっそり訪ねたことがある。めぐみさんは、金元工作員の前で、淑姫氏と「君が代」を歌った》

 --どんな様子で歌っていたのか

 「ただ、静かでおとなしい方で、静かに歌っていました」

 --一緒にいた時間は?

 「真昼に秘密に行ったんで、長くはいられなかった。見つかったら大変ですから。10分か、15分ぐらいかな。顔だけ見て、安心して帰ってきました。淑姫さんもめぐみさんに会いたかったから」

 --会ったときの様子は?

 「私は話すことがない、初対面ですから。ちょっと、よそよそしい雰囲気で。『何していたの?』と聞くと、めぐみさんは『本を読んでいました』と答えた。話すことがないから、淑姫さんが『私たち、歌でも歌いましょう』と声を掛けました」

 --なぜ「君が代」を選んだのか

 「一番、歌いやすいから、歌ったんじゃないかと思いました。ただ、今、振り返ってみると、国歌ですから、日本のことを考えて、帰りたい、そういう気持ちもあったんじゃないか。今はそう考えます」

 --話す日本語が非常にきれいだ

 「(北朝鮮の)大学で勉強していたときは、しゃべる機会は多くなく、会話はよくできなかった。田口八重子さんに会ってからは自然に話せるようになりました。2年間、日本語ばかりしゃべっていましたから」

 《金元工作員は1981年から約2年間、日本人に偽装するための日本語教育係として、田口八重子さん(62)と寝食を共にした》

 --印象に残っている田口さんの思い出は?

 「子供に会いたいと、涙を流していた姿が一番、目に残っています。かわいそうで、どうしていいか分からないぐらい。『売られてゆくよ』とドナドナの歌をよく歌っていました。自分の身の上と比べて歌っているのかなと、胸が痛んだ」

 --2009年には、釜山で田口さんの長男、飯塚耕一郎さん(40)とも対面した

 「立派な青年になった耕一郎さんを見ると、私が田口さんになったようで、耕一郎さんを抱きしめました。涙が出て…」

 --10年にも軽井沢で再会した

 「田口さんが好きなナスの料理などを一緒に作りながら、本当に親子になったようで。幸せな楽しい時でした。お母さんだけ(いない)。田口さんがいたら、最高だと(思いました)」

 --耕一郎さんへの思いは?

 「韓国でまた会おうと約束しましたが、できなかった。本当にまた、会いたい。私も自由な身じゃないから、行き来もできないし、韓国のお母さんの役割ができず、すみませんと(伝えたい)。また会って、約束した料理を作ってあげたい」

 --料理の約束?

 「北朝鮮で暮らしてい当時、田口さんがよくハンバーグや春巻きとかを作ってくれました。(耕一郎さんに)ハンバーグとか、作ってあげると約束しました」

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