実際、世界一のクリスマスツリーよりこの記事のほうがフラッシュバックを起こさせるのではないか、というような批判も見受けられました。
それもまた一理だと思いますし、もう少し穏やかに論を導けたら反発は少なかったのではないかとも思います。
しかし、私はこの記事で腑に落ちた自分の感覚を大事にしようと思いますし、この記事を読めたことに感謝したいと思います。
純丘氏が被災当時にどこに住んでいたかは存じ上げません。
しかし、あの筆致からすると、ご本人かご本人に近い人が、私などよりずっと「近い」地域であの日の絶望を見ていたのだろうと思います。
そして、この漠然とした違和感に、あの日の絶望を「近い」場所で「知っている」誰かが警鐘を鳴らすことは、必要だったと思うのです。
山の間伐と似ているけど何かが違う。
ルミナリエと似ているけど何かが違う。
「地方の山林を肌感覚として知っている」
「外縁ではあっても阪神・淡路大震災を体験している」
その私でも、違和感を掴みかねていました。
今では、あの日の絶望を実感として知っている人のほうが少ないでしょう。
このままでは「鎮魂」を華やかな商業イベントにすることが全面的に是とされてしまう、という危惧が、純丘氏の筆を苛烈にしたのではないかとも思います。
当時、阪神・淡路大震災を「体験」していた私でも、ルミナリエの本質は今回の記事を読むまできちんと分かっていませんでした。
被災者がその人工の光に見出した希望を共有することなどできませんでした。
分かる、と言ってしまってはいけないのだと思います。
被災の中心地ですら被災程度は千差万別です。
家が全壊した人。半壊した人。無事だった人。
家族が亡くなった人。家族が無事だった人。
友達が亡くなった人。友達が無事だった人。
恋人が亡くなった人。恋人が無事だった人。
世帯主が会社員であったか、自営であったか。
被災による経済状態の困窮の程度。
本人の心身の健康状態。
被災地の真っ只中ですら、恐らく誰も同じ痛みの共有はできないのです。
ルミナリエの光も、全く同じに見えている人は、今まで一人もいなかったのでしょう。