話の肖像画

音楽プロデューサー・高嶋弘之(2)兄も娘も、おいも売り込んだ

俳優の兄、高島忠夫(右)と(平成4年、本人提供)
俳優の兄、高島忠夫(右)と(平成4年、本人提供)

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新劇の演出家になりたかったんです。中学2年のとき、社会科の先生に学芸会の指導をしてもらったのがきっかけ。神戸高校では演劇部で3年間、芝居ばかりやっていました。先輩に後の女優、扇千景(おうぎ・ちかげ)さん(元参院議員)がいて、すごくきれいでしたね。早稲田大では第1文学部の演劇専攻。ジェームス・ディーンの映画「エデンの東」を見て映画監督を志したのですが、松竹の助監督試験に落ちてしまいました。あわてて就職先を探していたら俳優になっていた兄(高島忠夫)の紹介で東芝レコード事業部のディレクター試験を受けることができたのです。

〈4つ年上の兄・忠夫は、映画やテレビドラマ、司会者として活躍した大スター。愛称はボンちゃん。昭和26年、関西学院大在学中に新東宝のニューフェースとなり、芸能界入りしたが、それを勧めたのは弟の弘之だった〉

兄貴は背が高くて、当時、人気絶頂だった俳優の佐田啓二さんに似ていた。僕が新聞で新東宝の募集記事を見て「受けたら」って。芸名のアイデアまで考えました。そのときからプロデューサーの才能があったんでしょうね(苦笑)。

兄貴はすぐに人気が沸騰。僕が早稲田大に進学してから東京・下北沢の同じ下宿に住むようになったのですが、いつも女学生が5、6人、門の前で待っている。キャーキャー騒がれて、他の学生にも迷惑がかかるので、今度は一緒に田園調布の一軒家の2階を借りました。家賃は月1万5千円。兄貴はジャズが大好きで、さんざん聴かされたなぁ。僕が大学を卒業する前まで一緒に暮らしました。

〈高嶋家は芸能一族。弘之の次女、ちさ子は、バイオリニストになった。6歳でバイオリンを習い始め、桐朋学園から米イェール大学大学院に進んだ。演奏家、プロデューサーとして活躍する一方、テレビのバラエティー番組でも引っ張りだこ。歯にきぬ着せぬ「直言」ぶりが人気の的だ〉

バイオリンを始めたのは少し遅かったのですが、桐朋に入るのに、彼女はものすごく努力をした。ヨーロッパではなく、アメリカのイェールに留学したのも良かったと思います。クラシックのビジネスは何といってもアメリカですし、そこでいろんな人たちと知り合うことができました。

彼女がデビューするときは、あえて他の事務所に預けたんです。この業界では、僕の方が有名だという自信はあるんですけど、子供が売れてきたら、いきなりバカなおやじがしゃしゃり出てくるようなパターンだけは絶対に避けたかったのでね。

〈それでも、そこは「敏腕プロデューサー」。娘を売り出すための仕掛けは怠りない。ピアノとユニットを組んで売り込んだり、コンサートを企画したり。平成8年に東京・銀座のホールで始まった「ギンザ・クラシックス」は軽妙なトークを織り込み、多彩な楽器を使うなど、従来のおカタいクラシックコンサートの流れを変えた〉

最初はトークの台本を僕が書いていた。それをちさ子が自分で直してしゃべっていましたね。観客の反応を見ながら当意即妙の受け答えができる彼女は天才的なところがあります。言っときますけど、あれは「毒舌」じゃない。テレビだからとつくらないだけなんですよ。おいの2人(俳優の高嶋政宏・政伸兄弟)も最初は僕が売り込んだ。やっぱり「演出家」なんだな、僕は。(聞き手 喜多由浩)

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