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田中角栄氏との出会いは昭和46年7月。第3次佐藤改造内閣で田中氏が通商産業相(現在の経済産業相)となり、私は秘書官として仕えることになった。田中氏は蔵相(財務相)を経験し、在任時の秘書官の「とにかく忙しい人。ついて行くだけで大変」という言葉が印象的だった。
昨年、反田中の急先鋒(きゅうせんぽう)だった石原慎太郎氏が『天才』を出版し、田中氏をべた褒めされた。作家として田中氏ほど大きなインパクトとインフラストラクチャーを残した政治家はいない、その偉大な足跡を書き残さねばならないと評価したのだと納得した。田中氏は人間力、構想力、決断力、実行力といったリーダーに求められる資質で傑出していた。
構想力として田中氏には財源を生み出す知恵があった。戦前は国や軍の意思を地方に伝えるための道路を、田中氏はモノを運び、ヒトが動くための生活の手段と捉え、道路特定財源制度を実質的に議員立法で27年に創設した。
47年7月に首相になると大きな反対の中、9月に訪中して5日間の交渉で日中国交正常化を果たして大きな決断力を示している。「一番難しい問題に挑戦しなくてはならない。それが政治家としての宿命」だと語り、「毛沢東、周恩来という革命第一世代の目が黒いうちに問題を片づけるのが時代の要請」と機会を逃さなかった。