〈英国の歴史を読んだものでジェーン・グレーの名を知らぬ者はあるまい(中略)余はジェーンの名の前に立留ったぎり動かない。動かないと云(い)うより寧(むし)ろ動けない〉
英国留学中に同作を鑑賞して衝撃を受けた夏目漱石は、短編小説『倫敦塔』の中でこう記している。
縦約2・5メートル、横約3メートルの大画面。布で目隠しをされたジェーンが斬首台を手で探っている。背後で彼女をやさしく導くのは司祭。右側には斧(おの)を手に立つ死刑執行人、左側では侍女らが泣く。
「最大の魅力は、悲劇の前女王がまさに斬首される直前を細密に描写したリアリズム、そして演劇的に計算し尽くした構図にある」と話すのは、ロンドン・ナショナル・ギャラリーの担当学芸員、クリストファー・リオペル氏だ。「黒っぽい背景とジェーンの若々しい白い肌、サテンの純白ドレスのコントラストが鮮烈。床には血を吸うための藁(わら)が敷かれている。まるで映画や演劇の一場面のように見る者の恐怖を駆り立てる」
描かれているのは宮殿の地下牢とおぼしき場所だが、史実によるとジェーンが処刑されたのはロンドン塔の屋外にある中庭だった。「画家はあえて場所を陰鬱な室内に変えた。より残酷性、神秘性を高めたかったのだろう」とリオペル氏は見る。
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