今こそ知りたい幕末明治

勤皇の心で結ばれた西郷と月照

南洲寺にある月照の墓
南洲寺にある月照の墓

 9月はじめ、京都清水寺成就院で、学芸員の坂井輝久氏に、ある書翰(しょかん)を見せていただいた。「極密」の文字が3カ所も記されたこの書翰は、幕末の公家、近衛忠煕(ただひろ)が、安政5(1858)年2月17日に、ともに成就院の住職を務めた忍向(にんこう)とその弟、信海に宛てたものであった。

 友松円諦『月照-人・思想・歴史』(音羽山清水寺刊、昭和50年)では、原本の所在不明と記されていたが、成就院に軸装保管されていたのだ。

 その中身は、高野山での夷狄退教の祈祷(きとう)を依頼したものである。「極密申し入れ候。今度亜国(アメリカ)使節申し立ての条々、容易ならざる事柄、このまま流れ候時は、終(つい)には国家の御大事にも候や、ことに邪宗門(キリスト教)流布せしむるの意、もっての外」とする。信海は、高野山の僧籍も兼ねており、高野山での祈祷は実現した。

 兄の忍向は、月照という名の方が、知られているだろう。「眉目清秀、威容端厳、風采自(おの)ずから敬信を惹(ひ)く」と評された。

 ペリーが開国を迫ったとき、近衛忠煕は清水寺に参詣して、月照に初めて会っている。歴代天皇の清水寺への帰依は篤かったが、孝明天皇の尊崇(そんすう)は特に大きかったからだ。

 このとき月照は「君がため 法(のり)のためには 露(つゆ)の命 今此時ぞ 捨て所なる」との歌を近衛に返した。また月照は孝明天皇から御衣を下賜(かし)された。「純忠至誠」の勤皇僧となっていた。

 この月照と西郷隆盛の出会いは、冒頭の書翰と同じ安政5年であった。

 西郷は島津斉彬の君命を受け、一橋慶喜を次期将軍にする勅命を得ようと活動していた。

 西郷は後年、月照に初めて会ったときから、この和尚なら生死を共にしてもいいと思ったと、知人に語っている。月照が15歳年長であった。2人は勤皇の志を同じくし、一心同体であった。

 月照と西郷の密会の場所は、成就院だけではなかった。幕使の目をくらますため、高台寺春光院や東福寺即宗院、人里離れた清閑寺郭公(かっこう)亭など転々した。郭公亭は、清閑寺の茶室であった。いまその跡には「大西郷月照王政復古謀議旧址」の石碑が建つ。清閑寺には西郷と月照の位碑もある。

 だが安政5年4月23日、井伊直弼が大老に就任し、形勢は逆転する。井伊らは紀伊藩主の徳川慶福(家茂)を将軍に立てる。

 さらに7月16日、島津斉彬が急死した。西郷は悲嘆に暮れた。月照は、斉彬の遺志を継ぐため殉死をしてはならないと諭した。

 その月照を、安政の大獄の波が飲み込もうとしていた。

 近衛家から月照の保護を依頼された西郷は、筑前勤皇党の平野国臣とともに月照を薩摩に案内した。だが、斉彬亡きあとの藩は、幕府お尋ね者の月照をかくまうことなく、「日向送り」とした。日向送りとは「永送り」とも言い、日向の去川(さるかわ)関所を出たところで、処刑される慣わしであった。

 11月16日未明、日向への途中、月照と西郷は錦江湾に舟でこぎ出て、入水自殺をした。平野らによって救出されたが、46歳の月照は帰らぬ人となった。西郷は3日目に意識が回復した。

 西郷の懐中には、2人の辞世の歌があった。

 「大君(孝明天皇)の 為には何か 惜しからむ 薩摩の瀬戸に 身は沈むとも」「くもりなき 心の月の薩摩潟 沖の波間に やがて入りぬる」(月照)「二つなき 道にこの身を捨て小舟 波立たばとて 風吹かばとて」(西郷)

 月照死後、西郷は自らを「土中の死骨」とみなし、奄美大島に3年間潜居した。

 月照の墓は、西郷家の菩提寺に建てられ、相国寺鹿児島別院南洲寺にある。明治3年、西郷は月照の墓参りをし、墓前で大声を出して泣いた。「どうして私だけが蘇生したのか…」。その時の漢詩は、清水寺の月照墓に建碑された。

 「相約(あいやく)して渕(錦江湾)に投ずるに後先無し、あに図(はか)らんや波上再生の縁 頭を回(めぐ)らせば十有余年の夢、空しく幽明墓前に哭す」

 西郷と月照の勤皇の心が、倒幕の源流であった。

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【プロフィル】原口泉

 はらぐち・いずみ 昭和22年鹿児島市生まれ。東大大学院博士課程単位取得退学後、鹿児島大法文学部人文学科教員。平成10〜23年、教授を務めた。23年に志學館大人間関係学部教授に就任、翌年から鹿児島県立図書館長も務める。専門は薩摩藩の歴史。「篤姫」「あさが来た」「西郷(せご)どん」など歴史ドラマの時代考証も手掛ける。