そのさらに2年後、07年の2月、共同声明の実施に向け、6者がそれぞれ何をすべきかに関し、合意がまとまります。
北朝鮮に入ったIAEAの査察団は寧辺にあった核関連施設の閉鎖を確認、その見返りとして北朝鮮は重油を受け取るに至るのです。
一連の過程は、今度こそ粘り強く対話を続けたことが、北朝鮮に、行動を改めさせた、そう思わせました。
実際はどうだったか。
6カ国協議のかたわら、北朝鮮は05年2月、「われわれは、既に核保有国だ」と、一方的に宣言した。
さらに06年の10月、第1回の核実験を、公然、実施した。
2度目の核実験は09年。結局北朝鮮はこの年、「再び絶対に参加しない」と述べた上、6カ国協議からの脱退を表明します。
しかもこのころには弾道ミサイルの発射を繰り返し行うようになっていた。
5、議長、同僚の皆さま、国際社会は北朝鮮に対し、1994年からの十有余年、最初は「枠組み合意」、次には「6カ国協議」によりながら、辛抱強く、対話の努力を続けたのであります。
しかし、われわれが思い知ったのは、対話が続いた間、北朝鮮は核、ミサイルの開発を諦めるつもりなど、まるで持ち合わせていなかったということであります。
対話とは、北朝鮮にとって、われわれを欺き、時間を稼ぐため、むしろ最良の手段だった。