坂東武士の系譜・第2部(3)

八田知家 曽我兄弟の仇討ちの裏で暗躍

「小田城跡歴史ひろば」として整備された国指定史跡・小田城跡=茨城県つくば市小田
「小田城跡歴史ひろば」として整備された国指定史跡・小田城跡=茨城県つくば市小田

 源頼朝が征夷大将軍に任じられた翌年、1193(建久4)年5月、曽我祐成(すけなり)と時致(ときむね)の兄弟が父親の敵(かたき)、工藤祐経(すけつね)を討った富士の巻狩りでの「曽我兄弟の仇(あだ)討ち」。江戸時代の歌舞伎で大当たりの演目となる日本人好みの美談だが、別の見方をすれば、頼朝を狙った政治テロだった可能性もある。討たれた祐経は頼朝に重用された家臣だし、時致は頼朝の宿舎にも押し入った。黒幕として浮上するのは初代執権・北条時政。時致の烏帽子(えぼし)親で、兄弟の支援者だった。

 時政は早くから頼朝を支え、鎌倉幕府成立に貢献したが、その後は強引に有力御家人を粛清した。梶原景時、比企能員(よしかず)を滅ぼし、1199(建久10)年、落馬説がある頼朝の急死にも関与が疑われる。だが、最後は自滅。3代将軍・源実朝暗殺を企て失脚した。後妻・牧の方に翻弄されていたと同情的な見方もあるが、娘の政子、次男の2代執権・義時に引導を渡されたのは何とも皮肉だ。

 少し話はそれたが、曽我兄弟の仇討ちは陰謀渦巻く鎌倉幕府創生期の事件。常陸守護・八田知家も事件を利用して、常陸の権勢を争っていた多気義幹(よしもと)にわなを仕掛けた。まず、八田氏が多気氏を攻めると噂を流した上で、知家は仇討ち事件後、頼朝の身を案じて富士に急行しようと義幹を誘う。当然、義幹は警戒。居城の防御を固め、誘いには応じない。知家は頼朝に「多気氏は反逆を企て城に立て籠もっている」と讒言(ざんげん)、頼朝に呼び出された義幹は弁明が通らず、所領没収。見事、知家の思惑通りに運んだ。

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