今こそ知りたい幕末明治

鶏食文化は福岡にルーツ 竹川克幸氏

香椎宮の境内にある鶏石神社=福岡市東区
香椎宮の境内にある鶏石神社=福岡市東区

 今年は酉(鶏)年。土佐藩出身の坂本龍馬の大好物が軍鶏(シャモ)鍋であったことは、彼の最後の晩餐(ばんさん)として小説などの逸話で、よく知られている。幕末の日本では鶏肉食が広まっていたようであるが、そのルーツの1つが九州、福岡にあることはご存じであろうか。

 江戸時代、福岡藩では鶏卵の生産が盛んだった。これは、享保や天明の飢饉(ききん)などの不況を打開する藩の財政改革を契機として、芦屋や黒崎、博多などの鶏卵会所・鶏卵問屋を通じて、大坂方面に藩の専売品として出荷していた。

 さらに、朝鮮通信使やオランダ人使節ら海外からの賓客のもてなし用の鶏卵・鶏肉の需要もあった。

 また闘鶏も盛んだった。江戸期に闘鶏用の軍鶏が、東南アジアの暹羅(シャム)(タイ)から導入され、品種改良された。

 卵を産まなくなった廃鶏(親鶏)を食べることから、福岡藩での鶏食文化は始まったと考えられている。

 特に宗像地域は、周辺の糟屋郡や鞍手郡なども含め、「筑前卵」(宗像卵)の産地、養鶏業が盛んな地域としてよく知られている。宗像大社の境内・拝殿の横には、赤間や神湊、芦屋など筑前国内の「鶏卵荷主中」や大坂の「鶏卵問屋中」など、江戸期から鶏卵の取引・流通に関わっていたと考えられる商人が明治12(1879)年に寄進した灯籠が残っている。

 また、由緒ある香椎宮(福岡市東区)には、全国でも珍しい鶏(鶏石)をご神体にした、養鶏や子供の夜泣きに御利益があるという鶏石神社が境内にある。これも福岡藩領では養鶏が盛んであったことを物語っている。

 江戸時代、宗像郡陵厳寺村(現在の宗像市陵厳寺)の庄屋を務めた吉田家の嘉永4〜6(1851〜53)年の日記(『吉田家家事日記帳』)には、食材としての鶏肉や鶏卵、また鶏料理・卵料理の記述が頻出する。

 例えば、鶏料理は「いり鳥」「鶏の煮しめ」「鍋焼」「鶏皮と大葱のすまし汁」「鶏飯」などが、卵料理は「卵ふわふわ」「あわ雪玉子」「玉子吸物」「茶(ちゃ)碗(わん)・玉子すり(茶碗蒸し)」「玉子厚焼」「丼・猪口醤油・生玉子(卵かけご飯)」などが日記に見える。そして「鶏壱羽(一羽)を歳暮で贈答」などの記述があって、幕末の福岡藩領では鶏肉が広く流通していたようである。

 四国に亡命した高杉晋作を庇護(ひご)したことでも知られる讃岐国(香川)の勤王の志士、日柳燕石(くさなぎ・えんせき)が弘化元(1844)年の九州遊覧の際に記した紀行文「旅の恥のかきすて」には、次のようにある。4月11日に香椎宮や筥崎宮、千代の松原など名所旧跡を見物しながら翌日博多に着いて、交流のあった筒井村(現在の福岡県大野城市)の医師、是松良斎の家に投宿し、翌13日に太宰府天満宮への参拝や岩屋城などを訪れ、物見遊山を楽しみ、その晩、良斎から鶏肉料理のもてなしを受けた-。

 日記には「此夜、良斎ぬし、鶏を煮て〔筑前にては、にわとりを多く食す。俗に「野菜鶏」といふ〕酒をすゝめ、琵琶法師をよびて興を催す」とある。

 鶏はその身近さ、栄養や滋養の効果から「野菜鶏・庭野菜」と言われた所以(ゆえん)も記されている。幕末期の筑前福岡藩領では、大切なお客さまをもてなす料理として鶏料理が定番だったようだ。現代でもかしわの水炊きや焼き鳥、かしわめし、かしわうどんなど鶏料理に舌鼓をうつ観光客が、福岡博多で多いのも、うなずける。

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【プロフィル】たけがわ・かつゆき

 昭和48年、福岡県飯塚市生まれ。鹿児島大、同大学院修士課程、九州大大学院博士課程などを経て、日本経済大学経済学科准教授。専門は日本近世史と九州の郷土史。特に幕末の太宰府と五卿の西遷、志士の国事周旋の旅などを調査研究。著書(共編著)に「アクロス福岡文化誌9福岡県の幕末維新」(海鳥社)など。

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