戦後72年

B29撃墜の写真 写真に感じる搭乗員の覚悟 当時の人々の思い後世に

 福岡県の筑前町立大刀洗(たちあらい)平和記念館に、米軍B29爆撃機の残骸が写ったパネルがある。さきの大戦末期、日本軍機が体当たりで撃墜した。撮影者の佐賀県基山町在住の松隈(まつくま)嵩氏(90)は、写真を通じて、当時の人々の思いや事情を、後世に伝えようとしている。 (村上智博)

 昭和20年4月18日。松隈氏は福岡市郊外の雑餉隈(ざっしょのくま)にいた。旧制久留米工業専門学校の2年生だった松隈氏は、学徒動員で「九州飛行機」の工場で働いていた。工場では、開発中の先尾翼式戦闘機「震電」作りに携わっていた。

 晴れだった。ラジオから「久留米、鳥栖方面に敵機、来襲」と聞こえた。空襲警報が鳴り、工場を出て近くの山へ逃げた。警報が解除され、工場に戻ったのは昼過ぎだった。

 同僚が話しかけてきた。「小郡村の西に、B29が撃墜されたらしいぞ」

 この頃、戦局は悪化の一途をたどっていた。

 福岡県南部にあった大刀洗陸軍飛行場の一帯は、何度も空襲に遭った。この日の空襲も、大刀洗を狙ったものだった。

 夕刻、松隈氏は工場から帰りの電車に飛び乗った。米軍の最新鋭爆撃機を、この目で見たい一心だった。車内もB29の話題で持ちきりだった。

 基山の自宅に戻ると、カメラ「マミヤシックス」を首から下げ、上着の中に隠してボタンをはめた。父親に買ってもらったカメラだった。

 10分ほど、自転車をこいで現場に到着した。撃墜から9時間はたっているはずだが、黒煙が高く上がっていた。周囲を警防団や消防団が警戒していた。

 B29は防空壕(ごう)の真上に落ちた。中にいた住人6人が巻き込まれ、死亡したと聞かされた。生き残った男性がいた。朝鮮半島出身者だろうか、「アイゴー」と棺にすがりつき、泣き叫んでいた。その声は今も、耳に残る。

 松隈氏は、機体から20メートルほどの距離に近づいた。

 誰もこちらを見ていない一瞬を見計らい、上着のボタンとボタンの間からレンズをのぞかせた。焦点は「無限遠」に設定し、シャッターを切った。

 「カメラを持っているのが見つかれば、スパイ扱いされる。失敗はできないという『一枚必撮』の思いでした」

 B29の11人の搭乗員は全員、戦死した。米軍兵の遺体を、住民が「畜生」と言いながら、踏みつけたとも聞いた。度重なる空襲の被害から、米国への恨みが募っていた。

 数百メートル北に行くと、残骸の一部が散らばっていた。こっそり油圧管の部品「継ぎ手」を持ち帰った。

 若年とはいえ技術者だ。部品を見ただけで、国力の差を痛感した。

 「継ぎ手はどれでも、しっくりとネジが合った。ボルトとナットさえ合わなくなっていた日本とは、大違い。機体の油漏れによる汚れも見えず、工業力の差をまざまざと見せられた」

 そう日記に書いた。

 フィルムを自宅で現像した。暗室で作業をしていると、機体の残骸と、その周囲に集まる消防用のはっぴをきた男性の姿が印画紙に浮き上がった。

 ■日本一の精鋭

 死を覚悟し、B29に体当たりをしたのは、北海道出身の航空兵だった。

 記念館などによると、陸軍飛行第四戦隊の山本三男三郎(みおさぶろう)少尉=当時(23)=が同日午前8時前、二式複座戦闘機「屠龍(とりゅう)」で雁ノ巣(がんのす)飛行場(今の福岡市東区)を飛び立った。

 第四戦隊は昭和13年に大刀洗飛行場で創設された。その後、山口県の小(お)月(づき)飛行場に拠点を移した。本土に襲来するB29を迎え撃つのが任務だった。本土防空部隊として、日本一の精鋭とも称された。

 山本少尉は、この第四戦隊に所属していた。

 小郡上空でB29の編隊を見つけると通常火器で応戦した後、編隊最後尾の1機に体当たりした。

 山本少尉はパラシュートで脱出したが、途中で米機の機銃掃射を受けた。

 その後、久留米市の陸軍病院に運ばれた。治療中にB29が墜落したと聞くと「山本の勝利」と言って、絶命したと伝わる。

 松隈氏の写真は、戦争の壮絶な一面をとらえたものだった。

 ■見たこと、感じたこと

 松隈氏は当初、写真のことは胸にしまっていた。

 昭和54年、郷土史をまとめた写真集『鳥栖』出版の企画が持ち上がった。

 「あれから30年。後世に歴史の記録を伝えるのも大事なことだ」と考え、写真を掲載した。

 平成21年に開館した大刀洗平和記念館でも、写真を大きく伸ばしてパネルで展示した。

 同記念館には現在、山本少尉の血痕の付いたマフラーや飛行帽、メガネといった遺品が展示されている。B29と屠龍の空中戦を描いたイラストもある。

 松隈氏は今、72年前に見たこと、感じたことを、地元の中学校の生徒らに講演する。

 「やりきれないことだが、山本少尉は、国や家族を守らねばと、無我夢中で突っ込んだのだろう。戦争を知らない世代の皆さんに、家族を守るため、平和の礎をつくるため、若くして亡くなった人がいたことを伝えていきたい」

会員限定記事会員サービス詳細