今こそ知りたい幕末明治

調所広郷(下) 金灯籠に込めた思い調所

島津斉興と調所広郷の連名で京都北野天満宮に寄進した金灯籠
島津斉興と調所広郷の連名で京都北野天満宮に寄進した金灯籠

 □原口泉氏

 調所笑左衛門広郷(ずしょ・しょうざえもん・ひろさと)は文政11(1828)年、薩摩藩の財政改革主任となった。その2年後、大御隠居の島津重豪(しげひで)と、孫にあたる藩主の斉興から、500万両(今の5000億円)の古借証文の取り返し▽50万両の備蓄▽別途非常手当金の用意-を命じられた。調所は天保元(1830)年、「三島方(さんとうほう)」という役所の新設から改革を始めた。

 三島方とは、奄美大島・喜界島・徳之島の奄美三島で施行した黒糖惣(総)買入れ制の役所である。抜荷(ぬけに)に死罪罰則を設け、黒糖搾取を一層強化した。浜崎太平次ら豪商に造船を命じ、自藩船で上方に運送した。

 この結果、黒糖だけで10年間に235万両を売り上げ、98万4千両の増益を実現した。

 さらに天保10年、奄美に羽書(はがき)制を導入した。年貢糖以外を「余計(よけい)糖」と称し、すべて藩に納めさせ、羽書という一種の流通手形を交付する制度である。島民は羽書により鍋・釜・紙など生活必需品を入手した。その交換比率は島民にとって不当だったうえ、羽書の有効期限は1年とされた。奄美から貨幣が姿を消した。

 また調所は天保6年12月、コンビを組んだ大坂の豪商、浜村(出雲屋)孫兵衛とともに一大決心をした。250カ年賦無利子返還法、つまり藩の借金の「無利子250年分割払い」の施行である。

 農政改革では、疲弊しきった農村を復興するために神社を修造し、肥後・天草から移民を勧めた。北薩の大口盆地(現鹿児島県伊佐市)では、忠元神社を創建した。まつられた新納(にいろ)忠元は、戦国時代の島津家の家臣で、豊臣秀吉による島津征伐に最後まで屈しなかった。この武将の姿を通じて、農民を奮い立たせようとしたのだろう。

 調所は強引ともいえる改革を進めた。その末路は壮烈な悲劇であった。

 島津斉彬と共謀した幕府老中首座の阿部正弘から、幕府が知るはずもない琉球密貿易計画を咎(とが)められると、調所は一切の弁解なく芝藩邸で服毒自殺した。

 享年73。

 「自分はどうなってもよいが、子孫に因縁が及ぶことが心配だ」

 死を前に調所はそう語った。直系7代目の調所一郎氏が私に教えてくれた。

 調所が心配した通り、子孫は迫害され福昌寺の墓も東京に移された。鹿児島に戻ったのは、平成13年のことだった。

 調所の屋敷跡地の隣には、江戸中期に木曽川治水工事で犠牲となった家老、平田靭負を記念した公園がある。2人の悲劇の家老の縁を感じる。

 悲劇の縁はほかにもある。調所が改修した甲突川河畔に立てられた調所の銅像を見ると、左遷され、大宰府で客死した菅原道真が思い起こされる。道真をまつる天神の総社は京都北野天満宮である。

 幕末、桂久武ら在京の薩摩藩士はよく北野天満宮に参詣した。この天満宮に島津斉興の名で調所と山田清安の連名で、立派な金灯籠2基が天保11年5月25日(道真の縁日)に寄進されている。改革の目途が立ったことの御礼詣りであろうか。そのことを京都の歴史研究家、原田良子氏より教えていただいた。

 調所の功績は海外にも及ぶ。

 弘化3(1847)年、調所は薩摩焼の里・苗代川(現日置市美山)に南京皿山窯を開窯、本格的な磁器生産を始めた。ここから誕生した錦手(にしきて)・金襴(きんらん)手の作品をはじめとする薩摩焼は1867年、パリ万博に出品された。薩摩の美は欧州人を魅了し、ジャポニズムを喚起したのである。

 苗代川には調所の見立墓が建つ。調所は陶工たちにとって恩人であった。

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【プロフィル】はらぐち・いずみ

 昭和22年鹿児島市生まれ。東大大学院博士課程単位取得退学後、鹿児島大法文学部人文学科教員。平成10~23年、教授を務めた。23年に志學館大人間関係学部教授に就任、翌年から鹿児島県立図書館長も務める。専門は薩摩藩の歴史。「篤姫」「あさが来た」「西郷(せご)どん」など歴史ドラマの時代考証も手掛ける。