産経抄

佐藤正午さんのソーメン 7月21日

 東京都大田区にある古書店に突然、芥川賞を受賞したばかりの野呂邦暢(くにのぶ)さんから、電話がかかってきた。無名時代、近くに住んでいた野呂さんは、店の常連だった。

 ▼故郷の長崎県諫早市に戻る際には、欲しかった本を値引きしてくれた。そのお礼を述べ、授賞式に出席してほしい、というのだ。次第に記憶がよみがえってきた店主は快諾する。関口良雄さんのエッセー『昔日の客』にあるエピソードである。

 ▼佐藤正午さんは北大文学部に在学中、あこがれの作家だった野呂さんに手紙を出している。代表作の一つ『諫早菖蒲日記』の感想をつづったものだ。返事にはこう記されていた。「君の豊穣(ほうじょう)な未来に期待する」。佐藤さんは同郷の先輩に倣って、佐世保市に帰郷し、小説を書き続けてきた。

 ▼野呂さんは昭和55年、42歳の若さで亡くなっている。存命なら、佐藤さんの61歳での直木賞受賞をわがことのように喜んでくれただろう。受賞作となった『月の満ち欠け』(岩波書店)は、月が満ちてまた欠けるように、生と死を繰り返す女性の数奇な運命を描いている。

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