夢を追う

サッカー指導者・小嶺忠敏さん(1)日本一のチームのつくり方

《指導者の原点は、国見の前に赴任した島原商業高校にあった》

島原商は、私の母校なんです。

監督就任直後から、夢を抱きました。九州、いや日本一のチームをつくるのです。

当時の島原商は弱小校で、「夢物語」に聞こえたかもしれません。それでも、夢を追ってみたいと思いました。

指導はスパルタでした。学校から往復12キロを走らせ、徹底して鍛えました。

身体をつくり、試合ではあたりの強さを生かして、ゴール前に長いボールをほうり込む。そして力ずくでゴールを割る。この戦法は基本的に変わりません。

島原商は52年、インターハイで優勝しました。

《国見高は平成12年度に全国高校サッカー選手権、インターハイ、国体の3冠を達成した。これまでに、日本代表を含め、数多くの名選手を世に送り出した》

サッカー選手は何か1つ、光るものがあれば良いのです。その上で選手のレベルに応じた指導をすると、チームも伸びる。

例えば平山(相太選手)=ベガルタ仙台=なら、身長190センチという「高さ」とボールタッチの柔らかさがあった。それを自分の「宝」にするのです。

FC東京の大久保(嘉人選手)は、「ゴールを狙い、相手の裏を突く」。そんな動物的な感覚を持っていました。

しかも2人とも素直で、周りの人とうまくやれる。各自のセールスポイントをつなぎ合わせて育てるようにしました。

集まった選手でチームを作るのです。

チームの形は国見も毎年、違っていました。3年生が卒業した後、3カ月かけて、どんなプレースタイルでいくかを考え、新チームにしていく。

その際、「今はパスサッカーがはやりだから、パスサッカーをしよう」などと、信念がないのは、だめです。

信念は変わりませんが、指導法は次第に変わりました。

我慢し、長い目で選手をみるようにしました。

「国見は毎日必ず10キロ以上走らせている。軍隊だ」と言われました。島原商時代はそうでしたが、国見では週に1回、持久走と筋力トレーニングを行うスタイルでした。

「うまくなりたければ、全て教えてもらおうなんてダメだ。1から3は教える。でも、4から10は、自分の頭で考え、自分で練習するしかない。はい上がってこい」。こう口酸っぱく言うようになりました。

こうした練習方法を広めようと、フットボールアカデミーも作りました。教え子が指導し、地域のサッカーファンも、増えていきました。

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