話の肖像画

元衆院議長・綿貫民輔(3) 小渕首相との最後の電話

死去した小渕恵三氏の無言の帰宅を迎える(前列右端)=平成12年5月、東京都北区
死去した小渕恵三氏の無言の帰宅を迎える(前列右端)=平成12年5月、東京都北区

 〈昭和61年、第3次中曽根康弘内閣で国土庁長官として初入閣。平成2年、建設相に就任した〉

 国土庁長官としてまとめた第4次全国総合開発計画では、東海北陸自動車道と能越自動車道の整備を推進しました。全長の半分以上がトンネルと橋という大工事になりますが、日本海側の能登半島や富山県が、太平洋側の愛知県と南北に結ばれる。まさに「裏日本」から脱却するための道路ですな。

 建設相になったら、今度はその計画を実行するのが仕事。建設相を退任する直前に、東海北陸自動車道の一部区間の施行命令を出しました。私からの置き土産です。続いて、自民党幹事長も務めました。国連平和維持活動(PKO)協力法を成立させた苦労は、今でも深く印象に残っています。

 〈自民党では当時最大派閥だった経世会(現・平成研究会)に所属し、10年、首相に就任した小渕恵三氏から会長職を継いだ。このとき、自民党と自由党の「自自合流」問題が持ち上がった〉

 11年10月には千葉県内で、自民党総裁の小渕さん、私、自由党の小沢一郎党首、藤井裕久幹事長でゴルフをやろうという話になったんですよ。しかし、当日、大勢の新聞記者が現地に来てしまったので、小沢に「風邪をひいたことにして、ゴルフはやめてほしい」と頼んだ。その代わり、夜にゴルフ場のホテルで懇談しました。4人とも旧経世会に所属した仲間とあって盛り上がりましたよ。自自合流についても前向きな雰囲気で話をしましたが、実現には至らなかった。合流後の運営方法などについて小沢にいろいろと条件を付けられたのでね。

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