今こそ知りたい幕末明治

罵詈雑言浴びた改革者・調所広郷(上)

鹿児島市天保山にある調所広郷の銅像
鹿児島市天保山にある調所広郷の銅像

 薩摩藩家老、調所笑左衛門広郷(ずしょしょうざえもんひろさと)。彼ほど悪評高かった人物は、まれである。

 英明の誉れ高い島津斉彬の藩主襲封を妨害し、江戸の町娘お由羅の子、久光を藩主に擁立しようと企んだ▽斉彬の子供が次々に夭死したのは、お由羅の呪詛(じゅそ)による▽財政改革にことよせて一族が私腹を肥やした-。ありとあらゆる罵詈(ばり)雑言が浴びせられた。

 西郷隆盛や大久保利通らは、蛇蝎(だかつ)のごとく調所を忌み嫌った。調所の死後ではあったが、斉彬の急逝(安政5年)も、旧調所派の毒殺だと信じていたようだ。

 調所が憎まれたのには、それなりの理由がある。実施した天保の藩政改革が、藩の全構造に及ぶほど徹底したものだったからである。家臣団に対する給地高改正(軍役高改正)にしても、既存の特権を奪い取るものであり、フランス式軍制の採用などへの不満は、鬱積した。

 軽輩の御小姓組出身から、家老に上り詰めたことも、代々の家老にしてみれば面白いはずはない。

 調所の財政改革の大黒柱は、奄美・三島の黒糖専売制だった。調所は生産と流通の過程を徹底的に合理化、冗費を省き、監察制度を厳しくした。抜け荷によって潤っていた役人や商人の利権が侵害された。

 組織・人事面にも切り込んだ。不要の役人を減らし、財政を管轄する趣法方(しゅほうほう)という部局を強化した。スタッフに地方の郷士、町人も含め、優秀な人材を起用した。琉球貿易に従事した福山郷の厚地(あつち)家などは、町人から郷士最高職の郷士年寄役まで上った。肥後の名工、岩永三五郎を招き、錦江湾奥にある福山港をはじめ、港湾、橋梁、道路など産業基盤を整備させた。

 もっとも意を注いだのは、農業基盤の整備であった。新田開発や休耕地への農民の再配置。天草から、出水・大口・菱刈への移民も受け入れた。

 軍役改革にも着手せざるを得なかった。弘化元(1844)年、薩摩藩が支配する琉球王国にフランス艦隊が開国を要求したからである。天保元(1830)年に調所の改革が始まって、14年が経過していた。この間、厳しい倹約令への反発もあったが、調所は手綱を緩めなかった。まさに改革の嵐が続いたといってよい。

 こうした改革は、調所への絶大な権力集中を確立して遂行された。幕府の天保の改革が、老中・水野忠邦の失脚によって、わずか3年あまりで終わったのとは対照的である。

 調所は大御隠居の島津重豪(しげひで)と、藩主の島津斉興(なりおき)から信任された。緻密な観察眼、几帳面(きちょうめん)さ、何より、こうと決めたらぶれない性格の持ち主であると見抜いていた。

 当時、藩財政は破綻していた。藩債は500万両に達し、7分の低利でも利払いは年間35万両だった。藩の産品の上方売り上げは14万両ほどしかない。

 窮状に至った原因は色々あるが、第一は木曽川治水工事のお手伝い普請(1753〜55年)が大きかった。費用は約40万両、藩の予算の2年分に相当した。このうち22万両は上方商人から借り入れであった。

 その後、重豪の積極開化政策が財政難に輪をかけた。藩校造士館、演武館、医学院、明時館(後の天文館)など諸施設の建設に加え、13男14女が有力大名家へ養子、嫁入りした。二女の茂姫は11代将軍徳川家斉の御台所となった。嫁入りには莫大な金が必要となった。桜島の大爆発(1779年)、大凶作、江戸・国元での火災が打ち続いた。

 薩摩藩に対しては、大藩ゆえに年利3%の低利で、元金の償還は問わない「永々銀」と呼ばれる融通の道があった。薩摩藩はこの永々銀120万両の借金を文化10(1813)年、一方的に破棄した。

 この結果、薩摩藩に対し、低利で金を貸すものはいなくなる。必要な金は高利貸から借りねばならない。借金が借金を呼び、500万両という巨額に達してしまったのだった。

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【プロフィル】原口泉

 はらぐち・いずみ 昭和22年鹿児島市生まれ。東大大学院博士課程単位取得退学後、鹿児島大法文学部人文学科教員。平成10〜23年、教授を務めた。23年に志學館大人間関係学部教授に就任、翌年から鹿児島県立図書館長も務める。専門は薩摩藩の歴史。「篤姫」「あさが来た」「西郷(せご)どん」など歴史ドラマの時代考証も手掛ける。