都市を生きる建築(99)

近代が生んだ「大阪の御殿」都会の中で自然を味わう贅沢 太閤園淀川邸

【都市を生きる建築(99)】近代が生んだ「大阪の御殿」都会の中で自然を味わう贅沢 太閤園淀川邸
【都市を生きる建築(99)】近代が生んだ「大阪の御殿」都会の中で自然を味わう贅沢 太閤園淀川邸
その他の写真を見る (1/2枚)

 実業家たちが駆け抜けていった大阪。その代表格と言える藤田財閥の創始者・藤田伝三郎は、広大な本邸を大川沿いに構えていた。人呼んで「網島御殿」。1910(明治43)年から14年にかけて建設された。1945(昭和20)年の大空襲で大半を焼失したが、残った東邸は「淀川邸」と名を改め、新たな施設も加えて「太閤園」として1959年に開業。結婚式などを行った方も多いだろう。

 大きな唐破風に迎えられる。江戸時代の御殿の玄関を受け継ぎながら、車寄せにもなるよう奥行きが長いのが、明治以降の和風建築らしい。

 これほどの空間があったのかと、歩みを進めて驚かされる。異なる趣の大小の部屋が、中庭を囲む廊下に接続している。「羽衣の間」は欄間(らんま)の彫刻も豪勢な書院造りの大広間。客間として作られた。最高の格式の折上格天井が天井だけでなく、床の間にも応用されている。こんなアレンジも近代の和風建築の特徴だ。

 隣に位置する「紹鴎(じょうおう)の間」は、庭園との間がガラス戸となった開放的な広間。往時は食堂として使われた。外部に格天井のテラスが張り出しているのが珍しい。西洋建築の長所も取り入れた作りが、今も内外を同時に使ったパーティーといった使い方の楽しみを生み出している。

 玄関から入ってすぐの場所にある「藤の間」が唯一の洋室で、かつてはビリヤード室だった。窓は縦長の上げ下げ窓で、天井にはレリーフが施されている。廊下から外側も眺めて、軒下も繊細に彫刻されていることを確かめたい。都市の中に残された、貴重な明治の木造洋館の好例でもあるから。

会員限定記事会員サービス詳細