1人の青年が将棋の対局に臨んでいた。いつまでたっても初手を指そうとしない。開始から1時間、青年はそのまま投了して対局場を後にした。青野照市九段が自身の弟子にまつわる挿話として『プロ棋士という仕事』(創元社)につづっている。
▼青年が戦っていたのは、プロ(四段以上)を養成する「奨励会」の三段リーグだった。原則「満26歳未満」の在籍規定があり、年齢の壁で退会が決まっていたらしい。投了までの長考は、将棋への愛憎に身を焦がした時間だろう。夢の一歩手前の過酷な現実である。
▼奨励会員の6人に5人は、夢破れて去っていくという。2割に満たぬ勝者が、さらに優劣を競い合う。それがプロ棋士の世界、いわば「知の梁山泊(りょうざんぱく)」である。14歳の中学生が積み上げる連勝記録が、どれほど仰天ものの快挙か説明は要るまい。藤井聡太四段である。
▼20連勝した2日の対局後、「実力からすれば僥倖(ぎょうこう)としかいいようがない」と語っていた。素直な所感か、対局相手への配慮か。行き届いた応対も二重丸だろう。「僥倖」だぞ、知っているか-。青くささしかなかった三十数年前のわが中学時代に、問い掛けてみる。