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そろそろ県内に桜便りが届く。那須烏山市八ケ代と高根沢町桑窪の境の高台にあるヤマザクラの巨木「西山辰街道の大桜」は「義家桜」とも呼ばれる。源義家が挿したむちが根付き、成長した。
那須烏山市鴻野山の長者ケ平(ちょうじゃがだいら)官衙(かんが)遺跡にも義家伝説がある。塩谷民部(みんぶ)という長者がいた。豪壮な屋敷に大勢の使用人。広い馬場、農地を持ち、鍛冶屋も抱え、農具や武器を作らせていた。前九年合戦(1051〜62年)で奥州に向かう源頼義、義家親子の一行が東山道を北上した際、この家に宿泊。長者は豪華なごちそうを振る舞った。翌朝、出発する義家は「すまぬが、家来千人分の食料と雨具を用意してくれ」。頼んでおいて「驚き、迷惑がるかもしれぬ」と思いながら、難なく整えた長者の力に驚いたのは義家の方だった。
都に帰る際も一行は宿泊。長者は前にも増して盛大にもてなし、翌朝、一行を見送った。だが、その夜、倉庫も使用人の家も一斉に火の手が上がり、長者の屋敷は炎に包まれ、一晩のうちに灰になった。長者のあり余る財力を恐れた義家の仕業と語り継がれている。
実際、遺跡では真っ黒い炭化米がよく見つかる。昔から「焼き米」として知られ、焼かれた倉庫に備蓄されていたコメという。ただ、同市文化振興課の木下実さんは「義家の伝承は県内外にあり、長者屋敷を焼き討ちする似た話が福島県にもある」と話す。