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千年の都・京都は城の宝庫だった 信長、秀吉、家康…最新の調査成果とは

 二条殿御池城跡の調査については、4月に京都市文化財保護課が出版したばかりの市文化財ブックス「天下人の城」で新資料として、当時、並列して建っていたとされる「妙覚寺城」跡とともに紹介されている。

「花の御所」に山城、「旧二条城」も

 冊子では、主に南北朝時代から戦国期、安土・桃山時代、さらには江戸時代初期にかけ、京都市内に足利将軍家や信長、豊臣秀吉ら時代の権力者が築いた城を網羅する。

 同課は、この中で城の定義を「平安京の造営時に定められた道路側溝の規格(幅3メートル、深さ1メートル)を超える堀を持つ施設」としている。

 最初期の城としては、室町幕府の中でも強大な権力を握った3代将軍、足利義満が、現在の同市上京区烏丸今出川付近に「花の御所」を造営。6代将軍・足利義教も花の御所を拠点にしたが、嘉吉元(1441)年に義教が暗殺されると、揺らいだ政権は回復しないまま応仁の乱へと突入する。

 以後100年以上も戦乱が続き、権威が失墜した足利将軍家は安住の地をなくして京の内外を転々。戦につぐ戦で、銀閣寺の東丘陵や五山の送り火で知られる東山の大文字近くの如意ケ嶽などに山城を築いたときもあった。

 13代将軍・足利義輝は現在の府庁(京都市上京区)近くに堀をめぐらせた城館「武衛陣」を構え、義輝が殺害された後は、信長が15代将軍・足利義昭のために武衛陣をさらに広げ、後に義昭が堀を3重にし、これが「旧二条城」になった。

 「城の構え方、大きさなどで、当時の社会状況が手にとるようにわかるところが面白い」。冊子を中心となって編集した市文化財保護課の馬瀬智光・埋蔵文化財係長は説明する。